屏風物語 20250808 新規
屏風の作成時期
安岡の家に十二人の仙人の六曲一双の屏風
上が表装を直す前の仙人の屏風です。
以下が表装を直した仙人の屏風です。
猿が描かれた六曲一隻の屏風があります。
以下は表装を直した猿の屏風です。
これら屏風は表装直しのまでの永い間、木箱に入れられ、蔵に置かれていました。
これらの屏風は明治に誕生しています。
その物語を次から照会します。
屏風の傷み、絵に虫食いなどがあり、令和に表装の直しを行いました。
屏風の表装を直して頂いた「横山」さんに次のことを教えられ、屏風は明治に作られたと判断しました。
@ 裏形が型紙押しの手作りでした。大正になると裏形は機械印刷となります。
屏風のは手作りで明治以前の形式である。
A裂(表具に使用される裂地)が藩政期時代の作である。
B本紙の裏紙に明治に廃棄された思われる呉服屋の大福帳が使われいる。
C枠の固定に和釘を使用している。和釘は明治20年頃までは使われたいた。
*@.Aは明治に屏風を作った表装屋さんが、前から持っていたのを使用したと推測。
屏風は大きく、座敷に置くと床の間が見えなくなり、居間に置くと部屋が使えなくなります。これらの屏風は背後を隠すためでなく、絵を保護するために作ったと考えます。
屏風の絵の出処
屏風を作ったのは、屏風作成時期は明治18年頃で、婿養子に来た又彦が作成を言い出したのでしょう。絵を蔵などに仕舞っていたのであれば、新たに保護する考えは出て来ないと思います。どこかに貼っていた絵を剥がし屏風にしたと考えました。
これとは別ですが、座敷西側の壁土の下から紙の貼られていた痕跡が出てきました。絵を貼るのに下に貼った紙でしょう。絵の内容は不明ですが、座敷の壁に絵が貼られていたことが分かります。
修理工事で座敷の壁に絵は貼られていたとして、書かれていた絵が不明なので白紙を貼っています。座敷の修理工事は文政十二年の装いで直したことになっています。障子枠の漆塗り、床框の漆が塗られたのは文政十二年の記録はありますが、壁に文政十二年、絵が貼られたとの記録はありません。文政十二年頃の壁が貼り絵だったとの記録はありませんので、白紙の紙を貼ることは、何か中途半端のように思います。
一方、弘化に作られた座敷の上の間に続く上段の間は、時期が合致しないとして復原されませんでした。
四分一(シブイチと呼称)断面サイズが4分×1寸(12ミリ×30ミリ)の角材が柱、長押に合せるように取付けられています。貼り絵を抑えるためと思いましたが、画は竹村家の貼り絵の痕跡は半紙サイズです。四分一では貼られた画を抑える為でなく、飾りと思われます。明治に白漆喰とした時に、飾りとして新たに取り付けたと思われます。
屏風の絵はどこにあったのでしょうか。
襖紙の下に紙(裏紙と呼称)を貼ります。この裏紙に古紙を利用しますので、裏紙の記載内容から襖紙が貼られた時期が推測できます。
座敷の襖は修理工事前に、流離譚(昭和五十一年から昭和五十六年に雑誌新潮に連載)のネタ探しで、章太郎などの叔父たちが、襖紙を剥がし裏紙を取り出しました。取り出した裏紙に小説のネタとなるのは無かったようです。
その裏紙に本家の平八宛の火鉢の購入の請求書がありました。
覚/・・火鉢一/・・十年十一月十日 安岡平八殿 とあります。
本家の平八宛で十年とありますが、元号が不明です。本家は主となった正煕に従い明治二十四年以降に福島へ移住しました。その移住の際、山北の家に位牌などを放置したままでした。位牌、そして大事な資源として紙を四坊の家に移しました。前掲の平八宛の紙は、本家から持って来た紙の一部ですので、座敷の襖の貼り替えは本家が移住した明治二十四年以降に行ったのでしょう。
弘化四年に増築した座敷の玄関の式台にも座敷と同じ襖紙が貼られていました。その下紙に次の「付け買いの請求書」がありました。
福島屋□九日 /一 七銭壱厘 酒一合/一 八銭五厘
ライオンハミガキ/ 七銭五厘
ライオンハミガキの歴史を見ると粉ハミガキ『獅子印ライオン歯磨』は明治29年発売とあります。式台の襖紙も明治後半に貼り替えたのです。
屏風の作成時期と、襖を貼り替えた時期がいずれも明治となります。座敷に十二枚(座敷上間・下間 計八枚、座敷出入口に四枚)と、増築の玄関の式台に六枚の襖の画で屏風を作ったのです。
物入の痕跡があったということで、座敷に物入を作り襖を工事で復原していますが、使い方が不明であり物入はなかったことにして、ここの襖は含んでいません。
座敷の天袋の天井裏から明治廿二年と書かれた来た祈祷札が出て来ましたので、天袋も同じ時期に作られたので、同じ襖紙、他の小棚など作成時期は不明ですが、同じ紙になっています。取手の金具も同じ時期に作られたのでしょう。そして、釘隠しも昭和初期の写真に見えないことから、この時期に取り除かれた可能性があります。
現在の座敷の襖紙は明治に貼られ、座敷は明治の装いでした。
屏風と関係ないのですが、式台付襖にあった「付け買いの請求書」見ると、酒一合とハミガキの値段が概ね同じです。現在もワンカップとチューブハミガキが同じ値段です。
また、式台付の玄関に槍掛けがあり、安政十年四月と書かれた祈祷札がありました。安政十年とは恒之進が亡くなり、大坂の齢延寺より祠堂受領書を受取っていますので、一緒に送られて来たお寺からお札でしょうか。
屏風の絵の作者は誰?
猿の絵の屏風は六曲一隻です。
下の右側の猿の絵はインターネットに掲載されていた真作です。絵の右下に「狙仙」の署名と落款があります。左側が屏風の絵です。真作と同一の構図の絵は屏風にないので、木にぶら下がり親子猿が一緒いる絵を選び並べました。何か右の真作は毛がふさふさして、体が丸くふくよかです。
屏風の画は署名落款がないので、森狙仙の真筆ではないと思うでしょう。
森狙仙の絵を見たことがある人は、左の絵は森狙仙でないと直ぐに思うでしょう。
仙人の屏風の絵には下写真の右側のような署名(長谷川等玉筆)と落款がある絵、署名がない絵があり、一見バラバラです。これには規則があり後述します。
下の左の写真は上越市大廣寺の「仏涅槃図」にある長谷川等玉の署名・落款(許可を得て掲載)です。署名は雪舟八代長谷川等玉信雪筆とあり屏風の署名と違います。落款は全く異なります。仙人の絵も長谷川等玉の真筆ではないと思います。
屏風にある「鯉に乗ると仙人」が数多く模写としてインターネット競売に出品されています。その絵の構図は色々あります。下の左は屏風の「鯉に乗る仙人」です。右は模写で競売に出ていた作品です。
競売出ていた画には模写とあります。筆使いだけなの模写か、構図も模写しているのか不明です。高知県立美術館で問題になった贋作とは全く異なります。
恒之進・桐間・絵金
絵の作者の探索です。
恒之進あ精力的に活動した弘化時期の画家に絞ってもても答えに辿り着けないので、作者を絵金として可能性を探ります。
四坊の安岡の四代目恒之進は、父源右衛門が弘化元年死去し十歳で後見人付きですが家の主人となります。弘化四年十三歳となり、正式に家の主と認められ、馭初に出陣します。
「上段の間(貴人宿泊の部屋 座敷上の間に続く部屋)」を増築、文化に作られた座敷の玄関を取り除き、本門の正面の少し奥に式台付玄関を作ります。玄関設置は客人を迎える為だけでなく、本門の正面の玄関は、夏は海の涼しい風が家族が暮らす居間へ吹き込み、夏は過ごし易くなります。
一月に容堂の姉眞喜姫、三月に内膳(豊矩)を迎えました。恒之進は内膳より、江戸の土佐藩御用絵師の前村洞和の絵を拝領したと文助日記に掲載されています。
絵金は文政十二年駕籠かきとなって江戸に出立し、江戸で前村洞和に師事し、洞意の号を授けられます。天保三年江戸より帰国し土佐藩家老桐間家の御用絵師となり、林洞意と名のります。
土佐藩家老桐間家と安岡の家は、桐間の騎士の女が安岡の家に嫁に来ていますので、安岡と桐間は間接的繋がりがありました。騎士の役職が不明ですが、馬廻りと同等であれば、殿様に近い身分となります。
それを手懸りとして桐間の家を恒之進は訪問し、前村洞和の絵を拝受したこともあり、洞和の弟子洞意(絵金)と懇意となったと推測します。
絵金が絵の勉強で大坂に出掛ける前に、仙人の絵十二枚、森狙仙の模写で猿の絵六枚の画の作成を恒之進は依頼したのではないか。恒之進の画の好みから絵金に長谷川等玉の模倣での作成を依頼、二人の弟の名が権馬、覚馬で馬が付いているので馬の守護神である猿の画を依頼したのではないか。
座敷の壁に貼られていた壁紙は長谷川等玉の画に合う画だったのか、それとも合う絵をその後に貼ったのでしょうか。
絵金蔵が作成した冊子の絵金の年譜に「文久元年古屋竹原没」とあります。古屋の死去を絵金の歴史に入れた理由は不明ですが、ある資料によると古屋竹原は幕末土佐画壇の重鎮だそうです。その竹原に関連した軸が安岡の家にあります。その軸に「文久二戌暮竹原居士追善籍寄書九人集」と書かれています。竹原居士とは古屋竹原でしょう。この軸に八人の署名があります。九人集なので一人足りません。この軸の作成を計画した人が恒之進に書いて貰うため安岡の家に軸を持って来たが、恒之進は文久二年に二十八歳で大坂で亡くなっていましたので、恒之進は書くことなく、軸が安岡の家に残ったのしょうか。「文久二戌暮竹原居士追善籍」追善集を作りだっしたのが、文久二戌暮とあるので恒之進が亡くなった後に作成が始っています。
竹原居士追善籍寄書九人集の一人に李山がいます。その李山の名と蔓延二年辛酉が書かれた絵がお上の小襖絵(下写真)に貼られています。恒之進からの依頼で李山が絵を送り、小襖に貼ったと考えます。
庚申(蔓延元年)と書かれた襖絵があります。恒之進の号が不明はで確定できませんが、記載の時期から恒之進がお上の新築祝いで送った絵と思います。
恒之進は竹原にいつから師事したか不明ですが、古屋竹原追善の九人集に入っているのでそれなりの描き手だったのだろう。
十三歳で拝受した洞和の画の印象が強く、その後の絵の好みに影響したと思います。洞和は天保十二年没ですので、恒之進が内膳より絵を拝受した時には死去しています。桐間で洞和に師事した洞意の絵を見て、恒之進は洞和の絵を拝受した時の印象もあり、洞意に絵の作成を依頼したと考えます。絵金に画を依頼し手に入ったのは家の増改築(弘化四年)時期から安政二年の間と思われます。
恒之進の絵、古屋竹原追善の絵は、長谷川等玉の絵に近いように思います。
下はインタネットで検索した洞和の画です。絵金の後半生に描いた動的な画からは想像できません。また、彩色のためかお上の恒之進の絵とも何か違います。
恒之進の死
恒之進は文久二年参勤交代で江戸に向かう途中に大坂で二十八歳で病死します。
その葬儀には、西国探索途中で帰国した大石弥太郎、龍馬の兄坂本権平、魚屋、組頭など多種多様の人々が葬儀に参列しています。
絵金、追善集に名が掲載されている人の名は見当たりません。
明治の屏風作り
恒之進が襖に残した襖の画は廃棄されることなく、屏風の本体となりました。その屏風を作ったのは時期的に又彦でしょう。又彦は勉学の志を諦め、山北に婿養子に来ました。
座敷の壁に貼られた絵を剥がし、漆喰の白壁にして四分一を置き、釘隠しを外し、西門の前にあった長屋を廃棄(一部移築)し、西門から米蔵へ直線的動線とし、不要となった射場を廃棄、本門から離れた場所にあった玄関は残し、本門の近くに新たに座敷と直結し式台付の玄関を作りました。が、息子秀彦が昭和に風通しのため式台を取除きました。家の周囲の板塀を漆喰塀に変える計画し、妻の房が実行しました。
襖絵を外し現在残っている襖紙にしました。
又彦はどのような絵を好んだのでしょうか。大阪に行った時のメモに手帳にこんな記録があります。
尤モ余ノ心ヲ動カセシハ沈南蘋一書松鶴□ニ廉ノ一双ハ不覚智變
又彦は大阪で沈南蘋の作品を見て感動しています。沈南蘋の画と長谷川等玉の画と趣きが異なると思います。 そのこともあり、又彦は襖の画、壁の貼り絵を片付けたのでしょう。襖の画は屏風にして残したのは、兄儁(春田)の忠告があったのではないか。
*沈南蘋は中国清代の画家。長崎に滞在し写生的な花鳥画の技法を伝えた。弟子の熊代熊斐らが南蘋派を形成。円山応挙、伊藤若冲など江戸中期の画家に多大な影響を及ぼした。名は銓。字を衡之または衡斎。南蘋
(出典:fepedia
表装直しが終った猿の屏風は次の通りです。
猿の屏風の並びを見るとと梅、桜の春、子供の誕生、紅葉の秋、冬の備えと春夏秋冬、
子供の成長が季節の順で並んでいます。
修理前の仙人の屏風本体の周りに小縁の裂が貼られていました。
裂はボロボロで再使用不可で、再作成も出来ないので貼るのを止め、無地の鳥の子紙を本紙の表紙にしました。
落款と署名は左隻(左端)、右隻(右端)にあります。
屏風を立てた時の山の隣通しに落款があります。
署名(等玉筆)と落款 落款 落款 落款
落款・署名の位置は、六曲一双の屏風に決められた場所のようですので、原図にはなかった署名落款です。
仙人の屏風左隻から12枚の絵を紹介します。
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署名「等玉筆」落款 | 剣上仙人 | 水落ち狗を打つ *敵は手徹底的に打ちのめす |
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鶴の恩返しか。 | 釣竿に乗っていて、先端から糸が延び自分に掛かっています。糸は細いので写真では見えません。実物を見て下さい。 | 瓢箪から駒。 | 鯉に乗る仙人 | ||
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琴の名人。高琴仙人 上の松の葉が黒々としている箇所はニカワで墨を抑えている(表装直しで確認、絵金の赤い血の塊も同じ手法と聞く)。 |
署名 長谷川等玉筆・落款 | 左隻署名・長谷川等玉筆と落款 | 右隻署名・等玉筆と落款 |
落款と署名は左隻(左端)、右隻(右端)に署名と落款があり、展示で屏風の山の両側に落款があります。
署名(等玉筆)と落款 落款 と 落款 落款
屏風の落款・署名は?
式台の襖に絵を貼ったのは式台付玄関を作った恒之進でしょう。同じ頃に座敷にも絵を貼ったのでしょう。
署名はいつ書かれ、と落款は押されたのか。
襖に絵を貼った時には、屏風に貼られる位置は不明ですので、原本の絵には署名落款はなかったと考えます。屏風を作る時に、押印・署名したのでしょう。
落款は又彦の使っていた聴濤堂のように個人の号の可能性はあります。
が、これは屏風を作った表装屋の屋号と考えます。
屏風を作った表装屋は、型紙押しの手作りの裏形、裂(表具に使用される裂地)は藩政期時代の製品を使用していることから藩政時代から営業していた古い表装屋と思われます。
絵金蔵収蔵品目録の贋作事件の項に、作成を依頼した古物商が偽の印を使用し、「探幽の落款印章」を施し売りに出されとあります。古物商は署名を模倣できないので、偽印章を作ったのでしょうか。
屏風を作った表装屋は古いので、絵金の贋作事件ことを知っていて、屏風の絵と絵金の関連も知っていたと、裏付けなく想像しました。そして、落款は屏風作成の表装屋の印章、絵を見て長谷川等玉と署名を表装屋が書いたと思いました。
絵に署名の書き込み、押印を又彦は許したのでしょうか。おおらかです。
猿の屏風に署名・落款がないのは何故でしょうか。森狙仙の絵に似ていないので表装屋が止めたのか、又彦が止めさせたのか、謎が残ってしまいました。
絵は模倣でも構図が違えばいい絵はいい絵。歌・俳句の本歌取りの作品評価と同じと私は思います。
仙人の絵の構図は色々あり、数多くの人が描いています。だまして金を儲けるのでなければ、上手い絵、好きな絵はそれで良いと思います。
今回紹介した屏風の絵は真作、模倣、贋作かの問いに私は、絵金の模写と答えます。
恒之進は行った改築は、式台付の玄関の増築だけでなく、既存の座敷の上間と上段との接続、湯殿・雪隠脇の縁側増築、座敷の北側の庇の梁を上段の間の床下の梁に設置、西門前の長屋増築など大きな工事を短期間に行っています。工事の間に座敷の壁を貼紙にした可能性はあります。
壁に貼った絵はどのような絵で、誰の作品か。座敷の襖絵の仙人の絵に合った淡い絵と思います。座敷全体とすると枚数が多く、一枚ごと構図が違っていたのであればその作業量は推し量れません。全体でなく、床の間背後、地袋の上とか限定していたのかも知れません。
絵金の追放?
絵金は贋作問題で追放されたとなっています。違うように思います。
式台付の玄関が竣工したのは弘化四年で、絵金の歴史にあるように弘化元年贋作で追放されたとすると作成の依頼を桐間の家で行うことはできません。
絵金の贋作追放関連の記録が藩資料にないと絵金藏の説明会で聞きました。
絵金は贋作で土佐の画壇を追放されてのではなく、流派に縛られた書き方、御用絵師の制約を嫌い、もっと自由に絵を描きたいと、自ら桐間の御用絵師の地位を捨て絵の勉強で大坂に行くことにしたと、絵金の後半生の自由奔放な絵から考えました。
世話になった桐間に迷惑を掛けないように贋作問題をでっち上げ桐間の家を出たのではないか。
岩井と恒之進
恒之進と岩井は同郷の郷士です。藩の命で安政三年岩井、恒之進は他の郷士と共に砲術の研修に江戸へ出掛けます。その直前に恒之進の家に飾られた絵金の画を見て岩井は気に入ったのでしょう。一年間の研修が終り安政四年、帰高途中に、岩井は大坂で絵金を訪ねたが留守で、扇、作料金を残し絵の作成を依頼した事が、岩井日記に記載されています。
岩井は絵金の住まいをどのように知ったのでしょうか。恒之進は江戸に行く話を、懇意となっていた桐間の家に行き、絵金の大坂の住所を聞いたのではないか。江戸のへの途中、絵金を訪ねた可能性はあります。恒之進は江戸で岩井に、絵金の住所を教えたのでしょう。
絵金と大坂
絵金はいつ大坂に行ったのでしょうか。高知での絵金の作品は、嘉永七年(安政元年)作成の「土佐震災図絵」まで途切れませんので、それ以降に大坂に行ったと考えられます。恒之進及び岩井は安政二年に研修で江戸に行きますので、研修に行く前の安政二年か三年に絵金から絵を買い、襖に貼りそれを岩井が見て気に入り絵の作成を、帰高の際に大坂で依頼したと考えました。
絵金が大坂に出るためには通行許可書を持って関所を通る必要があります。絵金は許可書発行の願いを桐間に書いて貰い、通行許可書を受けたのでしょう。追放でなく自分で桐間の御用絵師を辞めたのであれば藩に追放の記録がないことは理解できます。
安政三年、恒之進が研修で江戸に行くとの話、江戸生活のことなどを桐間に聞きに行き絵金の大坂の住所も話題になったと思います。恒之進の記録には大坂で絵金と会ったとは書いていませんが、江戸に行く途中で絵金を訪ねた可能性はあります。
恒之進の払った画料は、十八枚ですので、絵金蔵の目録に芝居絵屏風は一隻二曲が二両とありますので、単純計算で一曲(絵一枚)一両で、猿と仙人の絵の合計十八枚で十八両となります。恒之進の支払い時期は不明ですが、絵金の大坂での暮し及び家族の生活費の足しとなったと思います。桐間もサポートしていたので、絵金の大坂の住所などを知っていたのではないか。
岩井の預けた扇
扇が大坂から岩井に送られて来たか、絵金は高知に戻っていますので岩井に直接渡されたのか不明ですが、日記が岩井家に残っていたので、扇も残っていれば手に入れ、日記と一緒にアクトランドに寄贈されたと考えられないか。
●安岡の家の住宅<重要文化財>先頭へ
凹み