●弘化時代の家を立体的に再現     20250808新規

 修理工事は座敷を文政十一年の装いで作ったことになっています。その後の弘化年代の建物は文書に残されるだけですので、その時代の家の立体的で再現したく思い、ジオラマを作って貰いました。それに一部に手を加え、弘化時代の安岡の風景立体を作りました。明治初期に作成された絵図を改訂した弘化時代版を次に示します。

 絵図の溝は原書では朱色と書いていますので、弘化時代の水路をそれに近い色で示しています。
 部落の共同水路「青線」がいつから、どのように決められたか不明ですが、現在の青線は家の背後から家の周囲を周り、南の水路または田に流れ込んでいます。

 次は作成途中のジオラマ作者の工房の状況です。
 
 弘化時代の特徴である式台付座敷玄関が本門の正面にあります。
 
                     ↑本門から真っ直ぐの座敷への玄関
 本門から真っ直ぐ延び、黄色い矢印の先に式台付玄関がありました。幕末のころには、こちらから座敷に上がっていたのです。
 弘化時代の家の仕様書がないので、口頭で仕様を色々とジオラマ作家にお願いしました。後だしで道具蔵の窓に金網がある事を伝えると、道具蔵についているのと同じ金網を作り、取り付けてくれました。

 以下に当初のジオラマ作成計画になかった部分について説明します。
 座敷の庭を整え石庭としたのは明治です。弘化時代の家の座敷の庭は現在のような石庭ではなく、松が目立つ庭でした。
山内豊矩が来訪(弘化四年)の際、次の歌を拝領しています。
  御詠歌拝領
   千年経る松乃久風志し澄て八千代栄む宿そ目出度   豊矩

 庭の松はこちらで作ることにしました。作った松は寝松と真っ直ぐ延びた三本の松です。
 これらの松は昭和40(1965)年頃、松くい虫で枯れ伐採しました。枯れた寝松の樹齢は210年でした。寛延3(1750)年生れになり、この地に覚兵衛が住み出した明和8(1771)年の20年前ですので覚兵衛が住み出した頃、既にここにありました。寝松は現在の本門の中央付近に生まれました。覆い被さる木があったためか、上でなく斜めに伸びました。横たわった感じで大きくなり、寝松と呼ばれました。文政13(1830)年の本門構築時にも、本門中央にありましたが、邪魔物扱いされず、枯れるまで伐採されませんでした。
 家の建物新築、改増築で松が邪魔でも、枯れるまで伐採することがありませんでした。

 安岡の家シンボルであった寝松などの松を作り、取り付けました。
  下写真の左中央部の寝松は銅板を鍛金で形作り、松肌は刻み込みました。その隣の真っ直ぐの松は、木製の棒に松肌を彫り込み作りました。

 松は寛延の誕生ですので、弘化時代には樹齢約100年となっています。模型の大きさは原則1/20縮小で、松もそれに合わせ縮小しています。松の葉は家の中を見るのに邪魔なので、取り付けていません。また、高さも見学の邪魔にならないように、上部を切断しています。それでも、ジオラマの北側から見ると、家の家根越に寝松の上が見えます。実際の寝松などが大きかったことが分かります。
 
 畳を傷めない構造の台を作り、その台の四隅にLEDランプを付けました。
 
 台の設置で射場の設置スペースの確保、家の北側及び西側に石垣を設置できるようにしました。下写真は射場のスペースを確保した場所です。
 
 道具蔵の脇の溝は、追加した境にあり、南に延びていました。天保の時代に射場を建設するのため溝を、松を避けるように逆コの字型に曲げ、矢場の溝と接続していました。その先はトンネルとなり、街道の下を抜け田圃に流れ込んでいました。
 ドローン撮影の写真に溝の遷移を書き加えると下の様になります。

 矢場からのトンネルの溝(塀の外に伸びるの白線)と明治に作られた溝との接続点が修理工事で確認されました。
 当初は白の線が、矢場からのトンネルの溝が直線で田圃に流れ込んでいたのです。
 射場を作った天保頃の射場・矢場・アヅチの様子を描くと次のようになります。         
 
 明治になるまで東〜南〜西の塀は、この絵ように無かったと考えます。
 明治後半に矢場の両側に塀が作られました。その西側の塀の脇に溝が作られ、前述のトンネルと接続しています。

 台の設置の時、北側・西側に石垣を作れるようにしました。
 以下が石垣を取り付けた様子です。
 
 北と西の石垣が合わせる位置に、絵図に古墓有と記載されています。

 現在は下写真のような場所です
 
 上の写真では見えにくいですが、下のよ右:線刻地蔵と左:線刻観音が並んでいます。

 
 
 四坊に初めて住んだ喜三郎夫婦がは正保元(1644)年に亡くなっています。
 二人が無くなった頃は、埋葬した場所に墓標を設置する仕来たりはありませんでした。
 埋葬場所にゴロ石を置いていました。
 線刻地蔵と観音なので喜三郎夫婦の墓と考えます。
 線刻地蔵・観音は供養でお寺に納めることが一般的です。
 ゴロ石と線刻像を設置は、その後の墓の形式に似ています。

 西の溝の石橋は明治に作られたので、石垣の上の墓参りは面倒だったでしょう。



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