・大石の額 20250808新規
お上の座敷に下の大石圓が書いた書が額に入れられ飾られていました。
(右側から)
八十二叟
圓
西宮之
ふ里多累(ふりたる)
庭の
木傳似(に)
あ王(あわ)ゆ起(き)ちらし
鶯のな九(く)
大石圓(大石弥太郎 明治3年に改名)は大正五年十月三十日に八十七歳で亡くなっていますので死去の五年前に書いた書です。
八十二歳を数え歳とすると、明治四十四年に書かれたことになります。大石圓が山北に来てお上で書いて渡した書でしょう。
西宮とは文助のいた家で、覺之助、嘉助、道太郎が生まれた家でしょう。明治三年頃、文輔が覺之助、嘉助、妻、孫娘の墓を作り、明治七年江ノ口大川筋移り住み、山北の家は廃屋となった。その家を見て歌ったのでしょうか。
文輔、覚之助、嘉助、道之助、正徳(権馬)、恒之進、覚馬の皆は亡くなり、正風は家を出てしまった。正徳の次男の虎一郎は病に臥せていました。
などの背景に思うと、大石の一人残された淋しさを歌っているのでしょうか。
あわゆきとあるので寒く、鶯とあるので春近い三月頃に歌ったのでしょう。雪を散らし行く鶯は春に何を持ってくるのでしょうか。
この書は額の入れられ、お上の座敷飾られていました。
この大石の山北訪問の頃、秀彦は縣庁に勤めており、山北にいませんでしたので、この訪問に関連した記載は日記にありません。その後の明治四十五年の秀彦日記には家の前の池で釣をしていたら大石が刀を研いでやろう来て、色々面白い話を聞いたとあります。どんな話をしたのでしょうか。
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