・安岡の家の歴史を解体・復原する 20200619新規
平成十七年五月に国の重要文化財に現在の香南市香我美町山北の家が指定され、建物などが文化財建造物保存協会殿の設計監理により修理工事が平成二十四年六月から開始され、各種の業者殿のご協力により令和元年十二月に竣工しました。本門、本門脇の番屋(昭和三十一年に売却・移築したのを譲り受け)を平成二十二年十二月に復原しました。
重要文化財建物の主屋の修理保存工事は当初、柱を残す半解体工事の予定でしたが、工事を進めると柱の傷みが激しいことが判明、柱も取り外す全解体工事で行うことになり、敷地の試掘調査も行いました。
工事実施前は主屋座敷部の障子框の墨書に文政十一年とあり、主屋の建立はこの時期と考えられていました。今回の解体でさらに古い文化六年と職人名が記載された墨書が座敷部から、文化五年の墨書が居室部から出て来ました。居室部は礎石などの痕跡から移築した建物であることが判明しました。ですが、系図には明和八年にこの地に住み出したとあり、建物の墨書と符合しません。
座敷部の整地面の下にも整地面があり、そこに胞衣壷が埋められていましたので文化六年より前の時代にも生活があったことが確認されました。
現在の米蔵の北側に高さが約三メートルの石垣があり、そこに胴木が残っていました。湧水が常に流れ出ていたので胴木が残り、湧水付近には料理場の痕跡がありました。北側の石垣は西に回りこみ、その角に家を見下ろすように、寛永以前と推定される線刻地蔵・観音の石仏、埋葬跡を示す石グロがありました。古いこれらの生活の痕跡、そこに暮らしていたのは誰か。この謎解きで系図・先祖書で山北に移り住む前の人の名が異なっていることを発見しました。
これら先祖関連の謎、解体復原工事で建物建立時期の謎、若くして亡くなった先達恒之進、嘉助、権馬、覺之助の生き様などの探索の過程などを本「安岡の家の歴史を解体・復原する」に書きました。
以下が本文の表紙
表紙の写真は石仏がある家の北西の角です。
別紙の表紙
別紙1 系図
別紙2 ホノギ図、絵図、
別紙5 昔の硬貨
左写真の背後は米蔵
米蔵の壁の△は養蚕室の