○ 復元工事と木の変化そして棒打ち
番屋復元工で施工業者さんに木の変化を予想した作り込みなどを教えて貰いました。
そのいくつかを紹介します。
● その1 平板の変幻
10月末に復元工事完了書を業者と交わし、11月中旬過ぎに、武者窓の地板(出窓枠内の下板)が膨らみ割れそうになったのです。電話を入れると「2、3週間すると元に戻りますので、その頃釘を打ち直しに行きます」とのことでした。
その内に膨らみは止まり、持ち上げた釘を残して、板は元の平板になりきました。
持上げた釘を残して凹み出した平板
この発生は雨が降った後からでした。この板の周りは古材ですので、もう枯れ縮み、水の影響は受けないので抑えられ膨らんだのでしょうか。割れ目は消え、今はまた平面に戻っています。
● その2 軒持送り金物と柱の隙間
北側は庇が長いです。建立当時は軒を支える金属製、木製の支えはなったのですが、今回は構造上から軒持送り金物(鍛金製)を取り付けました。下の写真で取り付けた四個の金物が見えます。
この取り付けられた両側の金物が柱から少し離れています。
金物は直角に作り腕木に沿って取り付けていますので、腕木と柱が90度より広げて取り付けられていることにります。これは屋根の重みで、沈んでくる事を予想した作りだそうです。どの程度で沈んでくるのか、楽しみです。
● その3 根継ぎ部は少し太く
柱の下部は水などで朽ちた箇所は切り取り柱を継ぎます。その根継ぎは金輪継ぎと呼ばれる力学的にも強いとされている手法で行いました。以下は門の柱の根継ぎです。
下の茶色箇所が根継ぎ部分です。この継ぎ箇所部分を見ると継ぎ足した新材は古材より大きくし、張り出させています。
この張り出した箇所も時間が経つと、縮んで古材と同じ太さになるようです。何時頃にそのようになるのでしょうか。
● その4 番屋の角柱と門の本柱
この項は木の変化するではなく、変化しないとの話かもしれません。
前述の根継ぎのため、番屋の南面角柱と門の本柱を切り取っています。
下の左が番屋の角柱で、右が門の本柱です。
角柱は約190mm四方で残った部分で年輪57、門の本柱は約280×
170mmで太いですが、年輪は粗く30です。
柱の製材で切り取られた部分を考慮すると、番屋の建立が180年前で
すので番屋の角柱(松材)の生まれは、300年前近くになるかも知れま
せん。
左:番屋の南側角柱 中央:門の本柱 右:建てた角柱
300年前と言えば、毎年、山北の浅上王子宮で行われる棒打ちは
今年(平成23年)で300年目とのことですから、角柱の素材の松は、棒打ちの天狗と獅子の舞の独特の太鼓の響きを聞いて育ってのでしょう。
棒打ちの写真を紹介します。まずは今年の写真で、大将同士が騎馬に乗って向かい合って棒を打ち合う前の儀礼式です。
下が昭和20年秋の写真です。足運びなどの形は変わっていません。観客が多い事、観客の様子が全く違っています。
次が天狗と獅子の舞の写真です。
ドゥ〜ントンドゥ〜ントン・・・・とゆったりした響きで榊で作った大幣で寝ている獅子の周囲を祓いながらゆっくり動く回る天狗、獅子が起きドンドンと早い音に変わり獅子と天狗が躍動感を持って動き出します。その太鼓は規則正しく単調ですが、独特な響きがあります。秋に夕方風呂を外で焚いていると、遠くから練習の太鼓の音が聞こえてきます。
その獅子と天狗の舞も昭和20年秋にも絶えずに行われたようです。
写真はボケて見え難いですが、子供達が興味を持ちながら見ています。
復元工事でない棒打ちの話が長くなりましたが、300年続く棒打ちを支える力に感心しました。180年前の番屋はヒヨコですがそのヒヨコも、もしかして300年前に誕生した松を柱にしています。
その年月の長さ思い紹介しました。
安岡由喜著「家を支えた先人たち」を見ると、300年前に山北へ移り住んだことになっています。棒打ちとお下の歴史は重なるのですが、祖父、父、叔父から棒打ちに参加した話を聞きません。以前は結婚すると棒打ちに参加できないらしくその関係と思われます。棒打ちと一緒に行われる、現在小学生が行っている浦安の舞に叔母達が参加したことは聞いたことがあります。
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