● 奥納戸の移築
奥納戸の名は明治に作られた絵図には出てきませんが、
祖父の秀彦の日記に次の記載があります。
大正十一年十月十一日
本日ヨリ料理場及奥納戸ヲ潰ハス
改造シテ四坊山ヘ繁喜ノ居ル家ヲ建テル為メナリ
繁喜は秀彦の弟の妻で、その弟が若くして亡くなったので家族を住まわせるための家を建てました。その際に再利用した建物が奥納戸でした。
奥納戸は座敷部の北側の六畳に続く雪隠・湯殿と思っていました。
今回の解体工事で、大正六年の撮影した奥納戸(下)が
絵図の雪隠・湯殿より大きいので絵図を描いた後に何かを継ぎ足したと推測しました。
継ぎ足しの箇所に和釘の痕跡がありましたので、
その頃(明治20年頃)解体した建物が移築されたのではないかと推測(想像)しました。
その頃に解体したのが西門の通を作るため西側にあった建物を解体し移築か。
この解体・移築し継ぎ足した建物を奥納戸と呼んだようです。
現存する奥納戸の移築先の建物を見ると、梁は大きく
丸太の組み合わせ昔の作りを感じます。
床の間もあり、軸懸けの金具なども残っていました。