建白書の写しは2冊の罫線が書かれた和紙の和綴じ本に書かれています。
 筆字と、硬い細い字で書かれています。細い字は勅書の写しの場合使われています。
 罫線付き和紙が明治以降に製造されたとも聞いていますので、もしそうであればこれら建白書の写しは維新後に作られています。

 これらは、2冊に11文書と4文書が、書かれています。
 それらの頭書き(2冊を文書番号18ノート(イ)と(ロ)と区別)を次(横書きに直して記載)に示します。


文書番号18ノート(イ)の目次
坐右録
その1
 上郷正親町大納言
 文久三年五月廿五日
(右近衛權少将xxxを中将にする)
その2
 朝廷被仰出候間・・・
その3
 筑前より建白
 此節長州人多人数出国。帝都近く押登り、兵器をも相、要地
その4
 因州侯より建白之写
 此度松平大膳太夫追討之期限被仰出奉畏候。然處頃日伝承仕
その
 備前侯より奏書
 松平太膳太夫儀兼而八京被禁候處、陪臣福原越後を以名を
その6
  水府公より近衛前殿下へ指出候建白
一、前三行禁諱事件ニ付@得写し不申、謹而奉奏上候。長藩
その7
   九月朔日松平三河守様建白
謹而言上仕候。先頃松平大膳太夫家老を始、家来共多人数
その8
   長州候藩中■御示教書
吾日本ハ天津日嗣乃知食御■ニシテ其中生ルノ者ハ皆之御
民ナリ其御民ニ自然と上下の別を君臣■事■我等知
・その9
   薩建白写
方今内外大小ニ一憂患四方百出■■
皇國危急存亡此時ニ可■■出柳今日之形物権

その10
   朝庭御沙法書
その11
     西郷建白
一官員布置之次第當分ノ通ニテ宜シカルヘシ内取捨之ケ
條アルヘシ

●文書番号18の手書きノート(ロ)の目次
その1
     肥後有志建白魚住より差出
■■無識之私共國家之大事■■
・その2
 藤堂侯幕府建白之寫
先年より愚存之趣申上候儀ニ有之候処、天下之形勢累卵之場ニ
相成候得は、此上之御所置@毫髪も御謬誤被為在候時は、被対
その3
  勅書寫
朕惟分今時勢夷戎恣猖獗幕吏失措置天下騒■■
民欲墜塗炭
朕深憂之仰耻
その四
  庭雀■語
封建の治体了■して土崩■患害乎救ふへき哀
■数百年の間諸侯其封域を守り其士子教へ其

<目次ここまで>

 『西郷建白書』は西郷が、薩摩に戻ったあと大久保などの説得で東京に戻った時に作成した建白書の写しであり、『肥後有志建白魚住より差出』は維新前に出された建白書の写しです。
 維新前に出された建白書の写しが、本資料を作成した明治初期に残っていたのか、また西郷の建白書をどのように手に入れたのか(情報の伝達の早さ)、驚きます。
 明治に入りこれらの維新前の勅書、建白書などを何故写したのか。
 西郷建白書の写しがあることから、守旧派であった安岡権馬正徳の関連と思われます。
 <2010年3月追記>
 安岡章太郎の流離譚を読むと安岡権馬が「国許へ建白書を送る」の記述があります。これについて詳細(クリック)を別の示します。
 紹介した建白書(写し)が、権馬が国許へ送った物であれば、西郷建白書を明治になって書き足したことになります。

 以下に、表紙、細字の写し、『西郷建白書』及び『肥後有志建白魚住より差出』一部を紹介します。

 先頭のページ(細字の写し)                         表紙
  

 

                           ←西郷建白書            ↓
  


                              ←肥後有志建白書魚住より差出↓
  


              筑前より建白↓                 その2の先頭↓
  

  これら資料の写真版ですが、連絡頂ければお送りします。

  前述目次の資料(イ)のその1、2(先頭部分)の翻刻を建白書(一部)で(PDFを左クリック)紹介します。


                                         ● 安岡家あった文書index

                                         ● 安岡家住宅<重要文化財>先頭





● 建白書の写し

追加 2010年3月31日