・蚕種(卵)紙
 
家の整理をしていたら銅製、ブリキ(カ)製の円錐形で両側に穴の開いたのが、多量に出て来ました。

       2015年5月1日 撮影
 何に使ったのか、分からずにいました。
 上写真の金物とは別に、粒々の付いた紙(下写真)があり、なんだこれと思っていました。
 その粒々は円の形をしており、その紙に蚕の字と曽祖父又彦の名があることから養蚕関連とは思ったのですがよく分かりませんでした。
 試しに上の金物の大きい切り口とこの粒々の円を合わせると、粒々の直径と円錐の大きな方の直径が一致しました。


       2015年5月6日 撮影
 同じような用紙があり、見ていたら下の印がありました。

       2015年5月6日 撮影 
 
長野縣、蚕種(卵)の字がありました。
 25まで番号が付けられている用紙の左下にも「蚕(古い字)製造人 安岡又彦」の字が見えます。
 この用紙は蚕種(卵)紙と呼び、蚕の卵の保管、売買で使用するようです。そして、この枠の数が明治後半に(絹)品質管理上統一され全国28枠になったそうです。28枠もあり、番号が途中抜けているのもありました。

       2015年5月6日 撮影
 
朱印も歯抜けになっています。

        2015年5月6日 撮影
 朱印「三十年検証」はと読めます。
 検査で不合格となって、卵も番号も消されたのではないでしょうか。
 国で規定されるまで高知では25枠の用紙が使われていたそうです。
 廿五枠の版木も残されていました。


       2015年5月6日 撮影

       2015年5月6日 撮影
 卵の名前に関する印鑑もあり、蚕の卵を又彦は販売していたと思われますが、製造販売なのか転売のかもう少し調査が必要です。養蚕を行い糸を製造していたことは技術成績表などが残っていることからも分かります。

 

 前掲の25桝の蚕種紙が東京の紙博物館に展示されています。その枠外に次の記載があるそうです。
   春蚕 青熟
   明治三十三年六月十二日
   高知県香美郡徳王子村
   下村文次
 徳王子村と山北村は隣村です。明治33年又彦も盛んに養蚕業を行っていました。どのような付き合いがあったのか、興味を持ちます。
 


・養蚕道具
 養蚕の作業を示す写真があります。

 祖父が盛岡高等農林學校に通っていた明治35年頃の養蚕の授業の様子です。手前の背広の教授が見ているのが蚕座(さんざ)です。後の棚にこれらを丸竹に乗せて並べています。
 蚕に桑を食べさせるのを蚕座呼び、菰で作られています。明治25年頃に高祖父が福島へ養蚕業の視察に行ってます。その記録が手帳に残されています。

           桑入箱    マブシ    エビラ
 そこにもエビラの次の行に菰の記載があります。この蚕座を山北付近ではエビラと呼んで家庭で持ち、干大根などを作るのに使用しています。

       2012年12月19日 撮影
 蚕座と呼ばず前述の手帳にもエビラの字が見えます。現在でも山北村付近でエビラと呼んでいます。養蚕が明治以前にも行われ、エビラの呼び名があったことを示しているのでしょうか。手帳にあった桑入箱も残っていました。

        2017年9月26日 撮影
 深い木の箱で底に割竹を敷いています。
 前掲の蚕座の棚の拡大写真を次に示します。
 丸竹を乗せてあるのを似せて山北でも作ったようです。資材置場をブラブラして見たのがこれです。

 上写真の奥の形状が蚕座を乗せている丸竹の縦方向の資材の形状に類似しています。祖父が授業で習ったのを思い出し作ったのでしょか。取り外したのは主屋の東の廊下のようなスペースの明り取りのカバーでした。

       2012年12月8日 撮影
 使われている釘がステンレス製や、ネジ釘ですので昭和の後半か平成に作られています。瓦の波と合うのでそのまま使ったようです。
 これは風雨に晒されてたためかも知れませんが、平板で弱そうです。同じ用途で作られた思われる資材がありました。これは頑丈です。

 同じようなのが、道具蔵の棚置きとして多数使われていました。
 訂正:養蚕の棚と思ったのですが、大きさが合わず養蚕用の棚ではありません。この縦板に取り付けられているの小さな細工木の形「木鼻」と呼ばれるのに形が似ています。木鼻は神社の角などに交叉状に作り込まれています。
 前掲の手帳にマブシとの記述もありました。これは蚕に繭を造らせる個室のようなものです。

       2012年5月3日 撮影
 表面は紙で補強されていますが、芯はカンナの削り出しを巻いたように見えます。

       2012年5月4日 撮影

 山北村の近くの大忍製絲工場は昭和11年3月に閉業していますが、家では養蚕を続けていたようで、祖父秀彦
の日記に次の記載があります。

     昭和十一年 九月二十五日 金曜 天氣 晴 
       蚕ガ上簇(*)ガ近カヨツテ世話敷(せわしく:忙しく)ナツタ


・養蚕作業場所
     20180110 訂正
 養蚕の作業は絵図にある(米)蔵の前の土間と書かれた場所で行われていたとして、残存するエビラの数で必要面積を計算すと、土間に二階を作り込むと充分の広さが確保できます。二階階段の脇板が残っていましたので間違いないと思います。
 明治に入り納屋と米蔵の間(下絵図に加筆赤枠付近)に連結の庇を作っています。当初は養蚕関係のスペース確保と考えたのですが、前述のように養蚕作業場所は確保できていますので、目的は違っていたようです。

        




                       ● 安岡家にあった道具先頭へ

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● 養蚕関連 蚕種(卵)紙など        20180110 訂正