・引き継いだ財産
源右衛門は28歳で家を継ぎました。その時の父廣助までに築き上げた財産は、領知高134石5斗1升9合、物成米40石3斗6升6合と言われています。量がピントきませんが、1石は大人1年の米消費量(*)といわれています。これが正しいとすると、約180人分の米を毎年手に入れていたことになります。
* 1石が1年の米消費量とするのは少し少ない様に思います。
昔は米のみですから、3食を米、1食に1/3合とすると1日1合、1年365合⇒約3.7石になります。
少し食いすぎですかね。
1石生産するの1反の土地が必要といわれていますので、米生産領知として約134反=134反*991.74u/反、約132893u(約縦364m*横364mの土地)を所有していたことになります。米生産以外の土地を所有していたでしょから、相当大きな土地を持ちそれなりの生産構造を持っていたことでしょう。
・源右衛門と弓術
源右衛門は廣助の指導か弓術に力を入れていたようで、源右衛門が書き写したと思われるものが、射禮私記、大的躰記など18冊が残されいます。その内の1冊の前半部分と後半部分を以下に示します。
弓術の腕前は高かったようで弟の文助日記に以下記載があります。
九戊戌
同(四)月弓術御覧実兄源右衛門相勤初四本皆中リ御好六寸的皆中リ誠ニ仕合能古今ニ稀 ナル中リト人々賞シケリ
同じく、文助日記から源右衛門の関連を抜粋します。
天保十二年に父廣助病死し跡目を相続し、翌年天保十三年に源右衛門が郷士の誇りである駆初(のりぞめ:新年に城下を馬に乗る)を首尾よく行ないました。その年の4月に行なわれた行なわれた弓術御見分では源右衛門が腹痛を起こし「迷惑込入ル」とあります。
翌年天保十四年の駆初は、何か当家(当番の家)があるようで文助が担当しています。その年の12月に郷士の駆初が禁止する布告が出たため源右衛門などが家老宛に奉願書を翌年3月に出しています。その騒動が7月がピークで、直後の九月十五日に源右衛門は31歳で病死します。
・短命の始まり
前述の通り、跡をついで3年(31歳)で源右衛門はなくなります。短命であったこともあり、現在の家で「ここは源右衛門が手を入れた箇所」はありません。以下の寿司桶に『安源』の字があり、源右衛門が作らせたもの、使用したものであり、この桶の一個は現在も使用しています。
何故か、下の写真の通り、源右衛門正方の墓は大きくありません。
この後、10歳(現在の小学3〜4年生)の恒之進が百数十石の財産を継ぐことになります。
安岡の家『本家、お下、お上、お西』が揺り動かされ、跡取り短命の時代になります。