・10歳で引き継ぎ
源右衛門には3人の息子がいました。その長男が恒之進正代で、父が無くなった時、10歳です。
今では、小学生の3〜4年でしょうか。
その幼い子供が、父が引き継いだ領知高134石5斗1升9合、物成米40石3斗6升6合に近い財産をコントロールする地位についたのです。父源右衛門の弟文助正理などの叔父達の助けがあっても大変なことと思います。祖父廣助、父源右衛門に長男としての厳しい教育を受けていたとしても、10歳では幼すぎます。
太平の末期の時代、恒之進いかなる思いで、過したのでしょうか。
その幼い主人は、直ぐそこの維新の流れの中に入り、さらに揺れて見えない時代に向っているかと思います。
・文助日記から
源右衛門の弟である文助は、廣助の考えからか、お下の近く数十メートル離れた市にに家を持ち(今ではお西と呼ぶ)恒之進を、そして安岡の家を守り立てていきます。黄色の枠がお下、赤四角がお西のあった箇所、青の枠が墓地です。
その文助の日記から恒之進の関する記載箇所を抜粋し、以下に示します。
●その1 家の引継ぎ
弘化元甲辰 恒之進 10歳
同九月十五日兄源右エ門病死世倅悴恒之進幼年ニ付公文後見ニ而十一月無相違相続被仰付
* 後見人『公文』:廣助三男 公文勘十郎正信
●その2 表舞台への登場
弘化四丁未年 恒之進 14歳
正月十一日御駆初首尾能相済此年甥恒之進初而乗馬黒鹿毛上馬ニ而首 尾能相勤
* 『御駆初』は郷士が城下に入って馬を走らせる正月の行事であり、郷士にとって誇らし
いものでした。
* 馬について
幼児が馬に乗って格好がどうなるかと思い、その頃の馬について調べてみました。
その頃の馬は現在の競馬の馬ほど立派ではなかったようです。
以下に関連資料から書き写します。
「日本古代文化の探求 馬」と言う本の中に、日本在来場の源流との一節があり、その中で、徳川時代の拡販は防衛、殖産、運輸上、独自の政策を取り、各地に各様の馬が繁殖された。南部馬、三春馬、信濃馬、三河馬、能登馬、土佐馬、日向馬、薩摩馬などがその例である。明治維新になって、廃藩置県やその他庶政一新は、それまで各藩ごとに行われていた馬政を一時頓挫させ、馬産事業は衰退をたどった。との一文がありました。
また、土佐馬は、当時としても小型馬の属し、体高もせいぜい4尺(121cm)ちょっとであったようで、いわゆる名馬と呼ばれていた馬は、四尺八寸(145cm)以上が名馬の条件であったようです。
●その3 宴席への登場
弘化四丁未年 恒之進 14歳
二月廿八日南御屋鋪槙姫様山北村浅上宮江御参拝本家恒之進方ニ而一夜御宿リ首尾能相勤此之時恒之進拝
領物扇子煙草入金子弐百疋お猪鹿覚馬両人御前ヘ被召御菓子拝領
* 槙姫への対応
城下からの槙姫(何歳かは不明)を相手して、煙草などを貰っている。
煙草が貴重品でもあるのだろうが、恒之進は吸っていたのであろうか。
●その4 宴席続く
弘化四丁未年 恒之進 14歳
同三月五日より恒之進祝客初日八日迄仕
* 連日の対応
前述の逗留が無事終了したことの祝いの席であろう。
恒之進が対応したのであろうか。
今では、「僕疲れた。眠い。」となってしまうのでは。
●その5 更なる宴席
弘化四丁未年 恒之進 14歳
同三月本町御屋鋪内膳様御養子ニ御出被為遊候ニ付御国内御巡見
<中略>
同廿五日山北恒之進方御宿
●その6 宴席後の馬術披露
弘化四丁未年 恒之進 14歳
同廿六日御滞座被為遊馬術御覧被仰付執×も首尾能相勤一同御扇子拝領
乗馬人数自馬持大石良衛門岩井直蔵公文勘十郎池内平次郎岩井専次郎山本安次郎別役俊蔵
西又二郎同隆左衛門貞岡栄次郎安岡利弥安岡文助安岡恒之進
* 感心する気力
宴席の次の日に馬術を披露し、褒美で扇子を頂いている。感心する気力である。
・揺れ動く時代に入る前に
幼くして一家の長になり、色々と出来事があったようです。それは、次の『揺れ動く時代に』で記載したいと思い
ます。
その恒之進正代の署名がある歌集があります。
「八月十五日月朧奈るを身て」から始まるものです。自分の歌か、誰かのを写したのか、当方では判断できま
せん。
この『歌集』は数頁で最後の3頁ほどに以下の書き込みがあります。
皿屋敷の一説を漫画を含め描いた物です。
いつ頃書いたのかも不明ですが、このような物を書いてストレスを発散していたのでしょうか。