揺れ動く時代に 家の増改築 恒之進の兄弟と従兄弟 短命<大阪に死す>
                                   2019年10月18日 改訂

・家の増改築
 幼くして一家の主になった恒之進は、生活の主体は郷士の郷(農作業)より、士(武士)の生活に移っていたのではないだろうか。外国からの脅威などから藩が郷士の力を必要としたのかなどその理由は判断できないが、格が上がるに従い、それなりの増改築を実施して行きます。
 そのことを、絵図などで説明します。
 恒之進が行なった増改築の箇所を絵図に色を付けて以下に示します。

  

(1) 御成門
 図で茶色を付けた部分が御成門です。この部分の現在の状況は次の写真(緑の箇所を含め撮影 日時 2008年5月)です。
  

 文助日記には、
  『弘化四丁未年 同三月本町御屋鋪内膳様御養子ニ御出被為遊候ニ付御国内御巡見・・・・ 此時儀御成門建上ケ上段出来ル』とあります。
 
(2)奥納戸(化粧部屋)
  御成門の正面にピンク横線を付与した上の部分です。
弘化四丁未年 二月廿八日南御屋鋪槙姫様山北村浅上宮江御参拝・・・・』
 
   
 
 絵図に「湯殿」、「雪隠」と記載していますが、風呂桶とか、便座は無く通常の部屋でした。
201501訂正
 絵図に「湯殿」、「雪隠」と記載されている箇所と上の写真に写る屋根は大きさが違っていることが判明しました。その詳細は建物の移築(奥納戸)
 
*上の文助日記に出て来る内膳様、槙姫は誰か。
 槙姫と内膳に紹介します。


(3)客間用玄関
  絵図で黄色を付与した箇所が客間用玄関です。現在は下左(撮影2005年4月)の通りです。現在は、絵図にある式台、鏡板も取り除かれ、風通し良い、吹き抜け構造になっています。
             
 図面上の式台の上にある地袋は、客間で使用する戸棚です。 
 これらを上から見たのが、下左(撮影2007年8月)で写真右の高い方が玄関です。玄関などが後からの追加であることが、左に見える一見不要な水切瓦かと思われるのがあります。屋根のすぐ上に葺く水切り瓦、道具蔵の入口の庇の上に作られています。このような水切瓦、京都などにもあるそうです。瓦の向きがここのと異なっていると聞きました。
 下右(撮影2007年9月)は左写真の「↓ここ」の屋根裏箇所を撮影したものです。水切瓦が途切れていることが分かります。
       
 藩政時代の家作規制もあり、今回の解体修理の痕跡から絵図より小さな玄関だったと復原しています。解体修理前の玄関はいつ作ったのか、このHPでは家作規制もなくなった明治に作られたと推測しています。

(4)長屋
 一般には門と連結されて長屋門と呼ばれていること、絵図に長屋と記載があること、以下の文助日記の長屋立から、本門の西側(左手)を長屋門として、以前紹介しました。2008年12月に発見した建立年を示す資料から、本門の脇を番屋と呼び、以下の絵図の朱色部分を長屋と呼びます。この長屋が出来たため、前に紹介しました百姓門(絵図の番屋の左側)が無くなっています。通行も不便のためか、農作業などの出入りも少ない状況だったのでしょうか。
 文助日記から嘉永三年 『同(*四)月五日末子道之助疱瘡祝客致ス・・・此時本家恒之進方長屋立大工手伝を呼フ』とあります。
 番屋に西門の棟を接続した痕跡が番屋にあります。明治に入り池を埋め石垣を移動した痕跡があり、広い道、西門を作ったようです。
 ですが、藩政時代にも数十石の米を出入れしていた記録がありますので、門は無くても出入り出来ていたのでしょう。

 

 番屋は昭和31年に移築し、平成20年の移築先で建物を解体して、再建のため資材を解体したときに、次の墨書を見つけました。「文政拾三年三月五日 大工重八<以下略>」から番屋は文政13年ですから、廣助の時代に建立されたことになります。
        

 昭和6年、昭和27年に撮影した長屋を次に示します。
  
 昭和6年の写真:絵図の右下(南東側)から撮影(写真の左側が番屋)

   
     昭和中期の写真:絵図左下(南西側)から撮影(写真の左側が番屋)

・恒之進の兄弟と従兄弟
 長屋を建てた時、恒之進は16歳でした。
 恒之進は長屋を建てた嘉永三年の翌年、本家の万喜(20歳)と結婚し、女子を翌年誕生しています。生活はゆっくりではなく、士の道を駆け足で進んで行きます。文助日記からいくつか抜粋します。
 ●嘉永三年(1850年)
   二月有岡山に砲術打場出来ル
 ●嘉永六年(1853年)
   
十二月五日恒之進方射上安岡寿吉田村常次射上ル
 ●安政一年(1854年)
   二月末日公文勘十郎足達徳右ェ門安岡恒之進野戦砲車共出来
 ●安政三年(1856年)
  
八月四日曇小雨少ふる此日恒之進婚礼(*万喜は本家に戻り覚之助と結婚)
   同七日日和此日恒之進江戸江出足山田宿


 恒之進には5歳下の権馬、8歳下の覚馬の2人の男兄弟、妹が一人。お西に従兄弟(文助叔父息子)に同じ歳の覚之助、1歳違いの嘉助、13歳離れた道太郎の3人の男従兄弟。本家及びお上には、その頃家を引き継ぐ息子が不在で、覚之助が本家、権馬がお上の養子に行きます。
 
 文久元年(1861年)に江戸で土佐勤王党の盟文が作成されます。その年に覚之助と道太郎は住吉陣屋詰めのため大阪に行きます。ここで武市に会い次の手紙を嘉助に送ります。



この手紙が、安岡の男達が尊王攘夷の渦に飛び込み、家は揺れ動いていきます。

・短命<大阪に死す>
  前述の手紙を恒之進が読んだか、不明ですが、文久二年若殿様の供で大阪に行きます。
 そこで麻疹で病死します。享年28歳です。10歳から主として重かった18年だったのではと思います。大阪の墓は天王子の齢延寺にあります。高知・山北四坊山にも立派な墓があります。
  土佐の人の墓二基


   撮影2008年5月

 左は川村貞衛道忠の墓。その墓石の右に『■村貞衛名道忠土佐藩士■/文久二年五月奉 候命来■/墨江營適罹麻疹沈綿十旬閏/八月九日没年四十五』(*■:石が欠けて判読不可箇所 /:改行)とあります。その隣に『偏照院慶心現月居士』、安岡恒之進正代の上には家紋の剣花菱が彫られており、『文久二年壬戌八■/享年ニ拾八歳卒』とあります。地震での場所の移動など、寺の供養に感謝します。
四坊山の恒之進墓(2005年5月撮影)
 恒之進は病死しましたが、前述の手紙を基点とした流れを<揺れる時代を走る>記載します。



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左の屋根部分が奥納戸

下↓(撮影2005年9月)現在の状態