揺れる時代を走る 恒之進と従兄弟 覚之助からの手紙 残った人達



・恒之進と従兄弟

 「揺れ動く時代」のページに概略を記載しましたが、恒之進の時代には以下の兄弟・従兄弟達(除く早世)がいました。
生年 死亡年 備考
本家 万喜 お下家→本家に戻り覚之助の嫁となる
宗七正常 弘化三年(1846)14歳
お上 弘化三年(1846)権馬を養子
お下 恒之進正代 天保六年(1834) 文久二年(1862)28歳 若殿様の供での大阪で麻疹で病死
権馬正徳 天保十年(1839) 明治十一年(1878)40歳 古勤王派で活動 松山獄から出獄後
病死
女子 坂本家へ嫁ぐ
覚馬正慎 天保十三年(1839) 慶應ニ年(1866)25歳 病死
お西 覚之助正義 天保六年(1834) 慶應四年(1868)34歳 嘉永六年(1853)本家の養子
戊辰戦争で会津で戦死
嘉助正定 天保七年(1834) 元治元年(1864)29歳 天誅組で捕らえられ処刑
有子 足達家に嫁ぎ後不縁
女子 公文家へ嫁ぐ
道太郎正寛 弘化四年(1847) 明治十九年(1886)39歳 戊辰戦争に参加 自由民権運動に参加

 従兄弟のなかでは14歳で亡くなった本家の宗七正常が一番上です。その後に、男では覚之助、恒之進と続きます。恒之進の男の兄弟従兄弟『7人』の内2人が明治まで生き残りますが、反権力闘争の中で亡くなっています。
 お下とお西は親が兄弟でもあり、家も直線距離では100mも離れていないので往来は多かったと思います。その文書を一つ紹介します。

写真は右書きに従い並べています
 
*巻物形式資料であり、写真は部分を抜き出し撮影

* 写真右上:書き出し部分で源右衛門の弓術練習日数を記載
* 写真左上:市次(恒之進の幼名 推定)の弓術日数を記載
* 写真中央右:文助の弓術日数を記載
* 写真中央左:覚之助の弓術日数を記載
* 写真下右:最後尾で右側に×印が見え「加藤」弓術の師匠名が見えます


 書き出しに『天保十四葵卯年』とありますので、恒之進、覚之助の2人は8歳程度です。子供用の弓があったのでしょうか。各々年186日、152日弓を引いて、そして何を考えていたのでしょうか。何を2人は話していたのでしょうか。命中率を競ったりしたのでしょうか。

 この資料には安岡家以外の人も、数十人記載されています。客間の奥にある射場に数多くの人が出入りしてと思われます。
 本家の人の名は見えませんので、本家にも射場があり、別に練習していたと思われます。

 この2年後源右衛門は亡くなり、恒之進はお下の主となります。この後、恒之進と覚之助二人の体制への考えは違う方向に向ったのではないでしょうか。



・覚之助からの手紙

 郷士としての誇りである新年の初駆の記録を文助日記から見ると次の年齢差があり、この間に得た知識、環境に大きな差があったのでしょうか。
 恒之進 13歳

 『弘化四丁未年正月十一日御駆初首尾能相済此年甥恒之進初而乗馬黒鹿毛上馬ニ而首尾能相勤
 
覚之助 21歳
 『
安政三丙辰正月朔日晴 同十一日御駆初雨天此時覚之助相勤首尾能相済

 
*嘉永六年(1853)本家の養子になっていますので、本家として御駆初に参列しています。
 


 覚之助は安政三年六月からに長崎から江戸に約一年外に出ています。恒之進も安政三年八月から三ヶ月江戸に修行に行ってます。安政一年一月ペリー再び浦賀に来ています。この後に、二人が江戸を見て何かを感じたか。

 そして、文助日記に
(万延)二酉文久ニ替ル 四月廿一日覚之助道之助大阪御陣家詰被仰付出足同日安岡歳吉貞岡新六恒石来ル服部権七出足
 同月廿五六日夜より戊亥方長尾彗星出ル
とあります。
 そして、『維新土佐勤王史』によりますと、武市半平太は
『四月、高知ヲ發シ<中略>、八月、始テ土佐勤王黨同志血判盟約書ヲ作ル、九月、島村衛吉、河野萬壽彌等ト歸國シ、』
とあります。この帰国に際して、京都に寄り、勤王党のオルグをしたようでその時のことを覚之助から実弟嘉助に送った手紙が、「揺れ動く時代」のページに示した書面です。その記載は内容を次に示します

  
       
  

 『維新土佐勤王史』に血盟者姓名簿があり、安岡覺馬正慎、安岡權馬正徳、安岡覺之助正美が記載(記載順)されています。安岡嘉助は『吉田暗殺事件の累を避けんが爲』に取り除かれたと記載されています。
 前記の手紙を、嘉助が従兄弟達に覺馬、權馬に見せたか、話したのではないでしょうか。他見無用とあるのでこれを守って、話さなくても噂を聞いて早速血盟したのではないでしょうか。

 覚之助は半年以上経った文久二年五月に高知に帰ってきて、血盟したので従兄弟の最後に記載されているのと思います。この時実弟嘉助は、吉田東洋を暗殺して脱藩しています。正美は旧諱で正義が最終の諱です。
 
 血盟者姓名簿には恒之進は、記載されていません。勤王黨の考えに賛同していたが血盟しなかったのか、賛同していなかったのか。血盟していた弟あるいは従兄弟間とどのような話をしたのでしょうか。

 同様に覚之助と一緒に高知に帰ってきた道太郎も名簿に記載されていません。道太郎は、京都で勤王運動に加担した記録もあり、戊辰戦争にも出兵し覺之助(実兄)と行動を共にしていますので、勤王党の運動に賛同していたと思うので、名簿に記載されていない理由は不明です。

 覚之助の手紙から動き出した波が大きく家を包んでいた事を想像できます。



・残った人達

 明治に入る前に逝った人、残された人は変わった時代に生活も動かされて行きます。
 以下のその概略を示します。黄色マークは明治以前に亡くなられた人です。

夫婦 残された人 残された人のその後 備考
本家 覚之助正義 平太郎松風 29歳で死亡。 養子婿が入り福島・梁川に移住
万喜 乕次郎正風 お下家の養子となり、
寅兵衛正風と改名。
その後離縁
武三郎 早世
又雄正象 お西家の養子となる。
お上 権馬正徳 太郎兵衛 早世
<妻> せつ子
竹代
乕一郎 お上家を引き継いで行く。
お下 恒之進正代 馬子 公文家へ嫁ぐ
万喜
お下家を引き継いで行く。 寅兵衛正風と離縁後、
別役又彦と再婚。
覚馬正慎 女子 早世
<妻>
お西 嘉助正定 馬子 明治4年10歳で死亡
数治 真寿 本家平太郎松風に嫁ぐ 福島に移住後高知に戻る
道太郎正寛 富士 早世
弥奈 <又雄正象> 道太郎と自由民権運動を行なう。

 明治に入り残された人に、時代の変革の波が襲います。
 そこで止ったように残って行くお下家の屋敷を<残された者の時代に>に記載します。

 詳細な人の繋がりは、家系図に記載してあります。

                 続きはここをクリック<残された者の時代に

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