お下以外の家も揺り動かされていました。
本家は、養子となった覚之助が死亡し、長男平太郎松静は明治15年29歳で死亡し、その後藤田家より養子婿が入り福島・梁川に移住します。
お上は権馬が明治11年松山に投獄され、その年に40歳で死亡します。お西は道太郎が存命で自由民権運動で活動します。
そのお西ですが、文助の長女が明治七年死亡で墓が高知市内の小高坂山にありますので、明治の早い時期に高知市内に移ったのではないでしょうか。
私は明治四年頃まで、お西は四坊(山北)に住んで居たと推測します。
以下の墓に隠された物語を紹介し、その移住時期の推論を示します。
上は四坊山にある文助(墓石には文輔と記載)の妻、息子、孫達の墓です。
西側から文助の妻、嘉助の墓、嘉助の子馬子の墓、覚之助の墓が、ほぼ横一列に並んでいます。文助の妻の左側(写真上①)が少し空いています。
すぐ、隣に嘉助、少し空いて②右側に馬子、大きく離れ③右側に覚之助の墓があります。私が感じた何となく不思議と思った点を列挙しその推測を示します。
◎その1 覚之助の墓は何故離れているのか(写真上③)⇒四坊山の墓地は右側(東側)が本家、左側がお下家系列になっています。そのため、実弟と離れた右側に置かれています。
◎その2 嘉助と子供馬子の墓は離れているのか(写真上②)⇒四坊山の墓地では個人別に墓石があります。夫婦の場合は、夫の右隣に妻の墓を置きますんので、将来、妻『数冶(カズチ)』を右に作るつもりでいたのでしょう。数冶は天保十一年生まれで60歳過ぎまで生き、小高坂山に墓があります。
◎その3 文助の妻の左側に何故、空きがあるのか(写真上①)⇒前述の推測と同じようにそこに文助は自分の墓を作るつもりだったのでしょう。
◎その4 墓の建立者は誰で、その時期はいつでしょうか⇒この意思を持った墓の並び、嘉助、覚之助兄弟二人の墓石(空墓)は形状がそっくりで、別ページ(名前について)に記載しましたが、この二人の墓石のみ「氏」が記載されています。このことから作成者は文助と思います。
文助の妻は慶応四年に亡くなっています。昔は土葬で体が土と同化するまで10年間墓石を置かないと聞いており、その風習で火葬であった父の墓石も10年後に建てます。それに従えば、文助の妻は明治十年前後(明治十年頃)に作られたことになります。
小高坂山の墓で最も古いのが明治七年、馬子の死亡が明治四年、この明治四年から明治七年の間が墓建立時期ではないでしょか。そして、これらの墓建立時期に文助は山北を離れたのではないでしょうか。
文助が山北を離れるに当たり、前述の思い入れ及び外で死んだ息子二人への思いを込め建てたのではないでしょう。自分の墓に戻る文助の思いが遂げられず、小高坂山に葬られています。その墓石は四坊山の妻、息子のに較べると非常に小さいです。
左:嘉助 中央:覚之助 右:文助 の墓
何故、文助は四坊山に戻らなかったのか、前述の墓建立時期はまだ山北にいるつもりであったのか、
「もうここには戻れないが自分の気持ちだけ遺しておきたい」その覚悟で出て行ったのか、
もしそうであれば寂しい。
・今へ続く<残された額と文人との交わり>
お下で一人となった房は、祖父の兄弟の末弟で別役家へ養子に行った『俊蔵重慶』の息子『又彦』と明治十八年に再婚します。慶応二年生まれの又彦、文久一年生まれの房、5歳程度の姉さん女房になります。
又彦は勉学の志強く、明治二十年代に大学の通信講座を受けています。義兄の寺田寅彦の影響もあり、残された書籍からも勉学の気持ちが強かったと思います。
父の実家を保持するために、我慢し結婚したのではないでしょうか。
又彦は実兄で文人の別役春田の紹介もあり、多くの文人との交わりがありました。現在客間に飾ってある額からも、そのことがうかがえます。その額のいくつかを紹介します。
女性の描き方が似ていませんか。この画の題字にも山陰痩石の名がありますが、「春田子作」の記載があります。
跋文(訓読文)
明治二十四年辛卯の新正、
偶兎毫を試す。
古隷に作すも意窈たり。
銭梅渓の法に倣い、私意を容れず。
然れども髣髴を知らず。
其れ万一益否らずとも、其の及ばざる所却って妙味有り。一哽一哽。
聴濤堂主人、観て如何以為。
藜蕐居士 迂尚
陽刻・家は紅林深き処に在り。
* 2010年2月:指摘を頂き跋文を訂正
題箋
安岡先生雅属
乙酉(明治十八年)六月扶枽(桑の異体字)遊人
胡鐡梅書
*日本(扶桑=日本のこと)に遊びに来ている胡鐡梅が、安岡先生に依頼されて書きました。
* 2010年2月:指摘を頂き題箋を訂正
*胡鐵梅 諱、璋。字の鉄梅で行なわれる。安徽桐城の人。胡寅の子。
1848年~1899年上海に寓居した。1880年に来日し、長崎から、京阪、名古屋、山陰、北陸を歴遊し、各地で文人と交わりながら売画生活 を送り、1886年に帰国。上海で日本人の妻生駒悦の名義で「蘇報」を創刊しその経営に当たる傍ら古香 室牋扇店を営む。1898年に再来日したが、翌年神戸で病歿、追谷墓地に葬られた。画山水、花卉、鳥獣、人物何れも巧にした。
(上海―近代美術―特別展の図録より)
又彦はこの聴涛堂を気に入ったのか、自分のサインとして使用(時には聴涛軒と記載)していました。この家は海から1里ほど離れていますので、台風などの怒涛以外聞こえません。明治二十年頃は松が生茂り、日陰で苔むし、松が風にそよぐ音を浪に喩えたとも聞いています。
養子に来た直後にその頃の家の絵図を残し、兄春田たちの知恵を借り、庭にモミジを植え、石庭にしています。俳句に興味を持ったり、養蚕の研修の東北に出掛けたり、自由民権運動に参画したり、県議会議員にもなります。これからという時に35歳で亡くなります。
苦労の多かった房も一段落と思っていたら、明治三十三年に又彦が子供3人(筆頭16歳)を残し亡くなります。房はこれも乗り越え、昭和八年に73歳で亡くなります。
恐慌、戦争、農地解放などを打たれた家は、色々の人が住み作り変えられて来ましたがここに今もあります。
もしかすると、この家はその中に居た人の言葉を語り続けており、聞いてほしいのではと思います。
<次回:明治以降(起稿末定)>
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