言伝えによると道具蔵は質草で貰い受けたとありました。解体の結果、窓の位置の変更などから、移築し改造されたことは裏付けされました。
移築前(建立時)の部材と移築時の部材を放射性炭素年代測定をすると、次の結果が得られました。
○移築前(建立部材):宝暦7年から文化3年
○移築時 :文化8年から天保2年
放射線炭素測定は資材の測定結果と、蓄積されたデータと照合し年代を推定するため大きな範囲になるようです。この範囲で残された文書と整合が取れる時代をその建物の建立または移築時期と推定することになります。
この道具蔵に関して資料を次に紹介します。
☆ その1 文化拾壹年 戌歳根居指引帳
そこに次の記載があります。
安岡利弥太/拾月廿八日/一吉四十弐斗六・・/相渡/・・/右之内/・・/御蔵始末/御遣廣助・・/・・山南蔵〆/・・
とあります。
安岡利弥太のこの頃の状況を次に記載します。安岡利弥太は廣助が郷士を譲受た安岡彌十郎の孫です。安岡彌十郎正重は安岡一族で初めて郷士になった家系で正徳與四(1714)年から山南に住居していました。彌十郎は文化六年九月に亡くなり、同年に息子の安岡佐吾右衛門正忠跡目相続、さらに実子利弥太が同年に跡目相続します。安岡佐吾右衛門正忠は文化六年五月七日死去します。利弥太(推定年齢十三歳)は文化十二年に郷士職を小川鉄之進から郷士職を譲受ます。郷士譲受けるための手配を廣助が支援したことは伺えます。その一つが山南の蔵の買受で金の工面をしたと推定します。
前述の放射性炭素年代測定とこの文書ないとを照合すると、建立年は山南に住み始めてから七十数年後に建てた蔵とすれば合致します。移築年は居室部及び座敷部を建立後の文化十年頃とすればこれも合致します。
☆ その2 牛王宝印
年代測定としては前述の記載で充分かも知れませんが、道具蔵文化十年移築を後押しする資料を紹介します。道具蔵に何か紙(下写真右上)が貼られていました。
その紙には次の記載があります。
破けた箇所も推定すると「牛王 感神院 寶印」となりました。
感神院とは京都の八坂神社の前名で、八坂神社にこの寶印について問い合わせると次の返信がありました。
********転記********
〈前略〉明治以降、神仏分離により神社において仏教的なものを用いることができなくなったため、別紙の写真のような神府に変わりました。「牛王」の分部が「生土」という神道用語に変わることにより牛王寶印が残されることとなりました。現在は神符を桃の木に挟み「粥状」という御守として正月のみ授与しています。そちらの蔵に残された牛王寶印がいつ頃のものかわかりかねますが、それと同じものが足利尊氏をはじめとする室町幕府や著名な戦国武将に送られており、その礼状が『八坂神社文書』という当社の古文書に残されています。
********ここまで********
これを誰が八坂神社で購入したかですが、こんなのがありました。
文化九申三月南都春日大明神社終求之/・・/安岡廣助重正
文化九年に南都(奈良)の春日大明神に参拝しているのであれば、その序に京都の八坂人神社に寄り、前述の牛王寶印を購入した可能性は充分にあります。
春日大明神への参拝だけで藩外へ行けるのか不思議に思い、文化九年に書かれた文書を見ていたら次のがありました。
これは御奉行所に安岡廣助が差し出した願文です。内容は病気なので有馬温泉での療養を許可してほしいと記載されています。文書は文化九申三月九日付けとなっています。廣助の押印があるので、差し戻されてのかもしれません。これ以外にも二月に出されてのもあります。最終資料は手元にには当然ありませんが、何回も書き直して認められたのでしょう。
この療養の序に大坂の屋敷に行き、京都の八坂神社、奈良の春日大明神を参拝に脚を延ばしたと推測できます。この推測が正しければ、道具蔵移築の文化十年頃と宝印が貼られた時期と合います。
201071010 追加
文化九年の廣助の旅は旅日記として残されていて、廣助の旅日記として紹介しています。八坂神社を訪ねた記録はありませんが、琴平、大坂、奈良、伊勢、京都、大坂そして海路で帰高の大旅行をしています。
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