釜屋は昭和五十年頃北側が崩れ梁もボロボロとなっていました。今回の解体で文政八年の建立を示す墨書が出てきて、更に部材(栓)の状態から新築と判明し、廣助が本家から養子に来た文化四年頃持ってきたという言い伝え違っていたかに思えました。
 当初の発掘調査目的は崩れた壁土で隠された北側の礎石及び絵図に描かれたカマド、クドの位置確認です。発掘は香南市教育委員会生涯学習課文化財センターの調査員の方が、文建協の指導の基に行いました。


 上写真が発掘された跡を東側から見ています。写真右側に崩れた後に埋めたU字溝その隣に釜屋の北側の礎石が出て来ました。釜屋の東の際(写真下側)に瓦が一列に埋められていました。昭和二十年代釜屋の隣に鳥小屋があったようでこの瓦は動物が穴を掘って鳥小屋への侵入するのを防いだのでしょう。
 少し深く掘ると地層があり、複数回整地したことが分かりました。文政八年の礎石の整地、更にその下に古い整地があり、廣助が釜屋を持って来た時の整地かと思いました。これもどうも違うように考えています。この以降にも試掘でカマドの跡らしいのが、多く出てきており現在特定をできない状況です


 
西側の味噌納屋付近は土壁が剥き出しでしたが

発掘で厚い漆喰が出て来て、全体が漆喰で覆われ釜屋の響きと違う美しさを持っていたようです。
西側の味噌納家と絵図に記載されたエリアは薄い灰が敷かれていました。漆喰と衛生上も良いのでしょう。


下には虫防止のためか、灰が敷かれていました。
 カマド、クドの位置は土の焼かれ具合、整地層などから推定し復原することになりました。どこまで続いているか解明されていないのですが、暗渠があるようです。



 家の解体だけでなく、土からも色々発見できるのが、生活があった証拠でしょう。
 当初のカマドの位置の探索、カマドの痕跡が多過ぎました。

         2017年9月 撮影
 出て来る数が多過ぎ特定することは難しそうです。整地面と整合しても、当然夫々の面から出て、それも複数あるようです。カマドは経年劣化により何十年に一回の改訂が必要だったようですので、多くなるのでしょう。

 絵図上西(左)側にあった雪隠の穴も確認されました。

 この雪隠は昭和まで使用され
昭和十三年六月五日の祖父の日記に
 風呂場ノ北ノ元ノ雪隠ヲ潰シタリ溝ノ掃除ヤ桑尻ノ手入レヲスル
 とあります。

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