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釜屋 修理保存工事
2019年4月14日 改訂
明治20年頃に作成された藩政時代の住宅の様子を示した絵図の釜屋の分部を下に示します。右上に墨で太く馬蹄形に描かれた箇所に「クド」と縦方向に3ヶ所、その左に同じような形に「カマ」とあります。カマは竃(かまど)で、クドは少し小型の竃でしょうか。これらは位置を変え作り直していますが、昭和30年代まで使っていました
。
その左に味噌納屋とあり、その樽も残されています。叔母などから「祖母が作った醤油は美味しかった」と聞いていますので、醤油と味噌は別の納屋で作っていたのでしょうか。
工事名(クリック)
工事状況
更新
備考
釜屋解体
解体終了
2013年3月
下に示す
試掘調査
_1
調査完了
2017年8月
カマド位置確認から開始
試掘調査
_2
調査完了
2017年11月
大型シズ(排水設備)発掘まで
基礎・大工・左官工事
工事終了
2018年8月
左官・屋根工事終了
釜屋 カマド・クド工事
工事終了
2019年6月
カマド・クド火入
釜屋井戸
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2019年4月
釜屋の井戸を紹介
釜屋
の解体
○ 2013年1月 釜屋の仮設設置→2月 解体開始
前述の継ぎ足し箇所は現在なく、さらに釜屋の上部分が無くなっています。
無くなったのは東側及北側は昭和40年代頃に崩壊(下写真)し欠損しており、上の絵図だけでは梁棟の小屋組などが不明ですが、痕跡に基づき復原しています。
2013年3月5日 撮影
南側の庇、屋根から垂木を延ばし、それを受ける棟(下写真左側)があり大きいですが、元は小さかったようです。斜に切られた軒桁(下写真)があり、ここに庇用の板を乗せたと思われます。
2013年3月26日 撮影
解体の手順は蔵と同じで、瓦、野地(瓦)板をはずすと以下のように、何かを通し留めたような棟木が出て来ました。
2013年5月 撮影
一箇所だけでなく下写真の↓マークの箇所にありました。
この細工は瓦葺きでは考えられなく、藁葺きだったのかとの想定もあるようです。
萱は数十年毎に換える必要があり、萱を育てる場所も必要となります。
瓦土、火力の強い松がある温暖な地では米を作った方が経済的に効率だったのではないでしょうか。
2013年5月 撮影
廣助が養子(婿入)に来た時に、釜屋を持ってきたとの言い伝えがありました。現存する釜屋は新婚用の住まいと思っていたのですが、床を取り付けた痕跡がなく当初より三和土の納屋として使用していたとの建物痕跡からの見解です。味噌納屋、炊事場(ハシリ)、そして井戸場でもありその時の用途に合わせて姿を変えて来たのでしょう。
業者さんがこんなことを言っていました「重要文化財で寺社は作り方に仕来たりがあり、それがそのまま残っているので構造が想定できるのだが民家の場合、何が出て来るか分からない」。
○ 2013年6月 墨書検出
釜屋から以下の墨書が出てきました。
文政八年
乙酉年出来
香北村大工
庄蔵
墨書から前述の「釜屋は廣助が婿入りの時本家から持って」来たとの言い伝えとのズレが出てきました。廣助の婿入は文化四年ですので、「廣助が持って来た」との言い伝釜屋と現存のと同じでないことは確かなようです。
墨書の香北村は現在「やなせたかしのアンパンマンミュージアム」で有名ですが、社殿が高知県有形文化財に指定されている大川上美良布神社があり、文政八年の銀米指引帳に大工 重八の名があります。重八は客間の障子框(文政11年墨書)、番屋で名を残しおり、棟梁(推測)として永く仕事をしています。何故遠方の大工庄蔵を呼び寄せたのでしょうか。
庄蔵が重八の持っていない技能があったからと考えました。重八が40数年間家の大工として仕事をして、作らなかったのは萱葺の建物です。前述の建物痕跡からも、庄蔵がそのような技術があったかと思います。ですが、釜屋を当初から瓦葺としなかった理由は不明です。
○ もう一つの墨書
本ページの先頭に絵図があります。この左側は増築であり、その増築時期を示す墨書も出てきました。
天保十 亥 七月
釜屋は文政八年に創建され、天保十年に増築されたことになります。
言い伝えの廣助が釜屋を持って来たとの話がなくなりましたが、釜屋試掘調査でまた新たな考えが出てきます。
民家は住み易い様に変化していたのです。
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