釜屋の台所の配水設備を紹介します。
試掘で台所設備が年代を遡って色々出てきました。上の屋敷図でハシリと記載されているのが料理場です。上の図の中央右下の文字ハシリドシヅと読めますが、活字印刷の誤りでハシリ下シヅです。
今回は上絵図の右側は試掘対象外ですので、左側の枠を紹介します。屋敷図に対応した全体写真を次に示します。写真は屋敷図の外輪垣竹側から撮影しています。
写真の奥の設備について紹介します。
このシヅは排水設備ですが、浄化機能はなく周囲には抜けないのですが、水は地下へ浸み込ませる縦穴となっています。現在のように洗い物に食べ残しはなかったのでしょう。屋敷図に描かれた下シヅと同じ位置の痕跡は次の通りです。
石積みが丸くなっています。この上に置かれていたと推定したくなる水切が残されています。
上に板がなく、丸竹を転がし置き、一方を少し高くし転がり落ちない構造になっています。この構造物は釘は使用されていません。解体が容易にできます。その作りからも昭和以前の構造物と思っています。
上の全体写真で、このシヅは写真右(西側)の井戸から離れています。何故、水場の近くに置かなかったのでしょうか。この井戸が出来る前は湧き水しようでその位置に合わせたのか、井戸水を汚さないようしていたのでしょう。
井戸付近に明治以降の水場設備が集中しています。
まず、明治に作られたと思われるシヅを紹介します。
前述の下シヅの同じように渕を囲っています。この一見コンクリートのような部材が、明治に作られた西座の前の池の部材に似ていますので、明治に作られたと推定しています。
明治にシヅが作られること頃は次の写真のように並んでいたのでしょう。
2017年10月 撮影
今回は釜屋基礎工事のた両方のシヅは埋められてことになっています。
明治に新たなシヅが作られた時に、藩政時代に作られたシヅは埋められたのでしょう。いずれのシヅもコンクリートの下から出てきました。このコンクリート工事は次の祖父秀彦の日記記載から昭和9年と推定します。
昭和9年5月14日 勝手庭ノメント工事ヲ始ム
シヅが無くなり排水はどうしたのでしょうか。それを解く鍵が次の排水設備です。
昭和9年に作られたのは、上写真左手にある「雪隠に続く土管」です。雪隠とは庭の南西にある栗の木の下にある建物です。雪隠と言っても現在のトイレでなく、肥料蓄積場所です。この雪隠まで距離は約20m近くあり地面は逆傾斜ですので流れるような土管工事は大変だったでしょう。その後、浄化槽設置が出来そちらへの接続となりました。
炊事場への上水が水道となったのは昭和50年頃です。それまで井戸脇での炊事作業だったようです。井戸はここに紹介しました東側と西側にもあります。何故か五右衛門風呂の水は、風呂から少し離れた西側の井戸から汲んでいました。
井戸水の汲み上げは釣瓶で汲上げ担いで運ぶ、流しの樋設置、釣瓶から手押しポンプ、電気ポンプと変化しますが、風呂への水を西の井戸を使用することは変わりませんでした。風呂で多量の水を使った場合、料理用の水確保が問題となることが考えられます。
近世の炊事場を紹介します。
洗い場の上に作業道具が乗っていますが、タイルに覆われていないコンクリートむき出しで最近見かけないです。その左側は水溜で、井戸から汲み上げた水を入れ、下の丸い穴に木の栓で水の出し入れを調整したのでしょう。その洗い場で使用したと思われる水切りもありました。
最後になりましたが、井戸を紹介します。覗くと石積みが見えます。
2017年10月 撮影
井戸の中に石積みするためには、円錐形に掘り進むと聞いたことがあります。
パイプを埋め込む方式と違うので、時間と労力を要したのでしょう。掘り進めた整地面から釜屋建立の墨書から文政八年か、増築の天保十年に掘られたと推測されています。
井戸は井戸浚えと言う井戸の清掃作業を数十年に一回する必要があります。底を見えるまで、井戸の水を抜き周りに付いたゴミを取り除きます。今回も基礎工事終った時期に行なう予定です。
● 釜屋発掘調査状況 先頭へ
● 修理保存工事状況 先頭へ
● 安岡家住宅<重要文化財>先頭へ