● 石垣膨らみの直し
米蔵は北側・西側は数メートルの石垣と溝に囲まれれています。
北側の石垣が少し膨らんでいました。
2006年5月 撮影
上写真の横棒付近が少し膨らんでいます。膨らみの原因調査もあり石垣に番付して下ろしました。
2017年3月 撮影
上写真右側が膨らんでいた箇所です。直接原因は不明で経年劣化のようです。これを積み直しすると見違えました。見た目は石はちいさいですが、上写真の取り外したのを見ると中々大きい。これらの石どこから集めたのでしょうか。
2017年6月 撮影
この石垣も草刈りなどの維持管理をしないと美しさが維持ができません。
● 見守る水神地蔵か
石垣は蔵を巻くように南に向かっています。その角に水神様と呼んでいた地蔵がありました。
2010年6月 撮影
久しく見ていないので文化財センターの方とマムシを恐れず探索しました。すると二体ありました。
2017年6月 撮影
自分が見付けたのは上写真の左側で頭に凸があり観音らしいです。線刻観音、線刻地蔵と呼ぶらしいです。山の上の恵日寺にも線刻地蔵がありました。話を聞くと、線刻地蔵などは江戸より前に作られ、この地域特有の物らしいです。絵図では古墓ありと記載されています。地蔵などが置かれた場所は数メートルの石垣の上にあり梯子を掛けないといけません。お参りには不便な場所ですので、我家に関連した古墓ではありません。
これらは表題に記載した水神様でなく、墓石が作られる以前の寛永時代の形式に則ると墓地と聞きました。ここに墓地がある状態で明和時代に土地を貰い受け、墓地を残して斜面を削り石垣を作ったと推測ができます。
● 水路の行方
蔵を巻いて水路は井戸を脇を通って南に流れていきます。
2006年5月 撮影
井戸の脇まで溝が細くその後は広くなっています。
この溝は釜屋付近から流れていますが、料理などの廃水は溝ではなくシズなどに流していました。風呂の排水はありますが、この溝は排水路でなく石垣の下から出て来る湧き水の水路としての役割が強いです。石垣の下からの湧き水が出ている裏付けに、石積の下地の胴木が腐らず出て来たことがあります。詳細は敷地試掘を参照。
水路の先はどこでしょうか。明治15年発行の地券に溜池と書かれたのがありました。
その場所は字四坊野で大きさ壱畝三歩(約30坪)です。溜池の場所は字四坊野とあり、次のホノギ図を見ると家(溝)のある四坊ノ丸の南隣です。
蔵を回った水路はここに繋がっていたのでしょう。
この溜池に関連して明治45年の秀彦日記に次の記載があります。
九月十日 火曜 曇
中食後前乃池で鰻をつりよつたら大石圓老人が
来られ刀剣ヲ手入をしてやろうとの事であつた
お頼み申す御話しが長がいので遂ニ二刀しか手入
が出来上らず
前乃池とはこの溜池でしょう。いつ埋めたかは不明ですが門前に池があったのです。
文助作成の家系圖の我家の初代覺兵衛について次の記載があります。
ここに↑ 四坊池ノ上
四坊池ノ上に初代が別住を構えたと記載された箇所です。この池が前述の溜池でしょう。この溜池は永い間家の前にあり、西側の水路と繋がっていたと考えます。
なお、明治の地租改正でこれまでの年貢(米)でなく現金を国に納付することになりました。地券に納付する率が記載され、その率と土地の広さで納める税額が決まります。率は米の収穫量を基準で決めています。溜池は米の収穫の可能性がないので、地券にその率が記載されていません。
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