2012年12月に仮設設置→1月 解体開始→試掘→基礎工事→柱組立と進んでいます。米蔵及びその周辺の変化を時系列に示します。米蔵の仮設が解体され、これまでと異なった視点で紹介します。米蔵の定点の更新は今回(2019年1月)で終わりです。工事工程別の状況を以下のページに示します。なお、解体工事は道具蔵と同じ手順ですが、異なる箇所、建立などを以下の★ その1~その10 に紹介します。  
 20230117★その7,その10を訂正。     
工事名(クリック)  工事状況   更新   備考
 米蔵屋根・壁解体  解体終了  2013年3月  米蔵解体の流れ
 米蔵石垣・水路  工事終了  2017年10月  水路の先に溜池か?
 試掘調査  調査完了  2017年8月  瓦の花、焚き跡
 基礎工事  工事中  2017年10月  残周囲整備
柱・造作工事   工事終了  2018年3月
扉・内部工事   工事終了   2019年1月  窓・入口扉取付
土壁工事   工事終了  2018年6月  中壁塗終り漆喰壁へ
置屋根工事  工事終了  2018年4月   屋根瓦・漆喰塗
漆喰壁工事 工事終了  2018年7月  壁漆喰作業
西(米蔵脇)井戸   工事中  2019年3月  井戸周囲工事
 
  ★ その1 何故ここに鳥の卵
 屋根漆喰の登梁の末端に卵があった。

 
       2013年3月2日 撮影
 
漆喰の屋根の上に垂木を載せる為の登梁が置かれています。
梁と漆喰は隙間なく置かれています。
 その梁の末端から卵が出てきました。

 
      2013年3月4日 撮影
 卵が巣に勝手に入った? 
 親鳥が出入りして巣を作り卵を産んだ。
 どこにそんな隙間があったのだろうか?

  ★ その2 米蔵と移築
 現在の米蔵は部材の番付から移築された建物であることが判明しています。それを次に示します。

 上写真の↑の箇所「貫」の拡大が下写真

 上の写真下側小片に「西面2F 鴨居」とあり、上側の貫に墨で「北貫□六」と古材の番付が書かれています。現在の米蔵の西は、当初の北つまり90°回転して現在の位置に移築し建てられたことになります。
 →続き★その10

  ★ その3 ヘ字型の水切り瓦
 庇の上にヘの字型の水切り瓦の痕跡が見付かる。

 
      2013年2月26日 撮影
 
昭和20年後半~30年代の写真にこの痕跡が写っています。
 
       昭和30年頃 撮影
 これは米蔵の南側にあった納屋(イナヤ)と米蔵を連結していた庇があったのでしょう。米蔵側の古材には人が出入出来る通路を設置した痕跡はありません。養蚕作業スペースとしてはイナヤ(二階建て)で十分なスペースを確保できています。他家もイナヤで養蚕をお行っていました。そこに換気口の扉が作られていました。二階の養蚕場所の換気口として明治中期に作られたと推測します。

 
 ★ その4 小舞竹の角回し
 小舞竹は道具蔵と同じように太い丸竹で、角で周り込ませています。

  
        2013年3月6日 撮影
 
上の写真は米蔵の北西の角を写しています。
 この場所は上段の石垣の角で風通しが悪く、湧水もあり湿気が多く柱は腐り、立っていること、驚きました。一ヶ所が弱っても壁などが取り持つ互助で建っている感じです。

  ★ その5 野地板とヨシズ
 米蔵の瓦、瓦土が野地板でなくヨシを藁縄で編んだ上に葺かれている箇所がありました。北側はヨシズが多く、庇部分には割り竹の部分もありました。下写真は米蔵南側で上がヨシズ、下が板です。ヨシズを拭く方式は雪隠でも見られました。


                2013年2月3日 撮影
 
道具蔵に比べ板の痛みが少ない。道具蔵の野地板は破れ箇所、継ぎ当ても多いですが、米蔵は全く目立ちません。この差は瓦へのダメージと推定します。道具蔵の方は杉の木が周囲にあり杉の葉が屋根に残り湿気がこもり易く、更に木が上に倒れたこと、台風の被害があったことなどがその要因と推定します。
 瓦の傷みが少なく天井板(化粧板)土留めの竹に藁を巻いた桟もそのまま残っていました。


      2013年3月23日

 
★ その6 床根太が雑然
 床根太が余りにもいい加減です。道具蔵に較べると根太の数も少ないし、両脇の根太を乗せる材(束)も廃材を切った物を使用し(下写真
の先)ている。

                 2013年6月 撮影
 中央の大引も石に直接でなく木を継ぎ足し乗せている。下写真左側。

                  2013年5月 撮影
 
上写真の中央の根太は柱の仕口(切り込み)があり、更に礎石への不安定な乗せ方。
 この様な床下にいつなったのか?
 このような状態で使用に問題がなかったのか?
 敗戦直前に軍隊が家を徴用することになりました。そのとき、弾薬を蔵の下に埋めたとの記録があります。今回の試掘調査でそのような穴の痕跡はありませんでした。弾薬は埋めたのでなく、単に床下に置いただけかも知れません。

 

 ★ その7 回し戸のような窓
 材料の番付(材料の置く位置を指示した墨書)から他から移築されたと分かっていたのですが、窓枠の周囲に壁に塗り込められ細工がありました。


                  2013年4月 撮影
 上の写真は窓を上から見ています。
 これを見るとこの細工に棒を入れ回転軸とした窓があったようです。
蔵とすれば窓から出入りできないようにします。窓は鉄格子付きの金網窓になっています。

                  2013年4月 撮影
 固定されたこのような窓であれば、回転窓の作りは不要で、また漆喰の厚い土壁では持ち堪えられないなど問題ありと判断されています。移築前は窓構造が違っていたのか、それとも単純な大工の施工ミスで取付け最終的に左官が壁の中に埋め込まれましたのか。不可解な点を残して復原工事ではこの仕組みは取り除かれました。
 この米蔵は東にあり、二階建てでなく、米収容に効率の良いが一階建でした。向きは現在と90°異なりこの窓は南側でした。蔵の内側の仕事が終わった後、ここに梯子を掛け外から窓を閉めていたのだろう。

                  2017年9月 撮影
 
道具蔵の窓の外扉に使用目的が不明の金具が付いています。これも同じように外から窓を閉めた後の止め金具と考える。
 
★ その8 建立墨書
 番屋には「福、徳(建物への願いか?)、漫画、建立墨書、廣助の名など色々ありました。道具蔵には番付以外ありませんでした。
 米蔵には単純な縦横位置を示す番付だけでなく、建立を示すものがありました。下の写真は最上部の棟を柱から取外しています。


            2013年5月 撮影
上写真の
の部分の柱と棟組みこみ箇所から墨書が出てきました。

            2013年5月 撮影
             山北村 大工 
                  利八
             新宮村
                  清介ヵ
           卯
             九月十一日 □□
 「卯」が建立か、移築か未確定でした。
 山北村大工 利八は安岡家のお抱え大工と思われます。
                       →続き★その10

 ★ その9 ネズミ塞ぎ
 蔵は漆喰の箱になっていますので、ネズミが入り込む余地はありませんが、建物の傾きで出来た隙間、床板の節穴を埋めるなど苦労が見えます。


           2013年6月撮影
 上写真の下側は壁板でここまで通常は土壁、漆喰壁などが被さっているのでネズミの侵入はないのですが、経年で建物が傾き隙間ができたので内側から漆喰を塗りこめています。

 ★ その10 米蔵建立時期
 明治20年頃作成された絵図には、米蔵、道具蔵は蔵としてしか記載されていません。明治直前には今の米蔵にその頃の石高の米を全て貯蔵することはできなかったと推測します。
 現在の米蔵は家の西端に位置し、南側に番屋が文政13年に建立されたので、米を運び入れる直線的動線がなくなりました。絵図を見ると本門しか米俵の出入が出来なくなりましたが、その頃既に貨幣社会で米を蓄えるのでなく、藩へは直接納所に納め、所有の米はブローカーに売り現金化し米で残す量は少なかったと考えます。
 明治に入り地租改正で現金で税を納めることになり、米蔵で一時保管が必要になり、米蔵への直線的動線で西門が作られたのでしょう。明治中頃以降養蚕を盛んに行うことも、西門を作った要因でもありました。
 前述(★その2 米蔵と移築)に示した通り、当初の建物の長手は東西方向です。入口は現在南側にありますが、古材に痕跡がないことから、当初も同じ位置にあったことになっています。生活場所(居室部)を中心に置くと、当初米蔵は敷地内の東側に建てられていたことになります。では、現在の米蔵の場所の形成などは試掘ページで紹介します。
 「★その8 建立墨書」で紹介した大工 利八の名は覺兵衛(嘉助)時代の文書
(・三弥→嘉助→覺兵衛の人生 項)に出てきます。その文書は明和四年で覺兵衛が住み始めた頃に書かれています。銭箱と呼ぶ箱(下写真)があります。そこに「明和八辛卯五月十八日家建 大工兎田村清助作(文建協殿の解読から)とあります。

 米蔵の墨書と清助と清介、新宮村と兔田村(隣村)と違いますが、同一とみなすと、大工の名から卯は明和八年で蔵を建てたと推定できます。古材の放射性年代測定でもそれを裏付ける調査結果がでています。★その8で示した墨書はその建立時期を示すことになります。

 が、謎は残ります。この銭箱の日付は明和八年の五月十八日で、米蔵の墨書では卯九月十一日となっています。文助が天保年代に書いた家系圖(家系圖の安岡覺兵衛正元(お下家の祖))の書き出し部分に「明和八年辛卯五月四日 四坊池ノ上江別住」とあります。前者の墨書は現場で書いたので日付が正しいとすれば、家が出来る前に住み始めることはないとすると、家系圖の日付は何でしょうか。
 覚兵衛が四坊に移り住んだ時期の日付は、覚兵衛の父「平八正久」の日記を文助が手に入れたことが書かれていますので、これを参照して
書いたのでしょう。
 明和八年五月四日に概ね出来上がった家に移住し、明和八年五月十八日家が竣工し、土地集積し、米蔵を建てたのでしょう。その頃の卯歳は、明和八年、天明三年、寛政七年、文化四年と続きます。米蔵の墨書の卯は流れから天明三年となるでしょう。

       ● 修理保存工事状況 先頭

       ● 安岡家住宅<重要文化財>先頭


●米蔵修理保存工事           20230117 訂正追加