安岡家住宅の番屋と本門

  番屋と本門は安岡家住宅の絵図の南側にがあり、その隣に『長屋四畳半』と記載されている建物が番屋で、その隣の門が本門です。

  文助日記に『嘉永三年 四月 家恒之進方長屋立大工手伝を呼フ』とある長屋が、上の絵図左側の建物です。長屋は明治初期に無くなり、番屋は昭和31年までここにあり、譲り移築しました。そこから再度譲り受け、解体し現在資材を保管しています。その解体で判明したこと及び新に見付かった本門資材を紹介します

 なお、西門(百姓門)は上記の絵図にはありません。明治初期に長屋が無くなった時に建てられたと推定しています。


● 番屋のあった頃の写真

左の写真:
昭和7年頃の南東側(絵図右下)からの番屋を見た写真。
絵図のように門の左側に袖塀が見える。

下の写真:200901撮影同一場所

昭和26年頃の南西側(絵図の左下)からの番屋



●番屋解体で見えたこと  番屋の建立時期  8m越す軒桁 鬼瓦  資材へのむだ書  西門 

(1)番屋建立時期を示す墨書
出桁の連結部分から出て来た。
建築日時等:
 文政拾三年三月五日
 大工 重八。。。。

*大工 重八は客間の書院障子の框にもその名が見える。

(2)8mを越す軒桁

  8m60cmの軒桁(解体時の写真) 1本の松の木


   トラックの荷台を越える長さ
   置き場所は米蔵の前でやっと入る


米蔵前に保存

(3)鬼瓦(諱の先頭文字「正」が刻まれている)
下した鬼瓦

(4)資材へのむだ書

国芳作品名を真似した表題
むだ書のあった部材
春水■□□
□雲。。。。

の歌が見える。途中で切れていることから本資材は建築時に2本に割かれてと思われる。
右写真の左側は
朝日新聞20100407から転記
国芳弘化4年頃の作品「荷宝蔵のむだ書」紹介記事

右側が資材にあったむだ書

右写真の左側は
朝日新聞20100407から転記
国芳弘化4年頃の作品「荷宝蔵のむだ書」の紹介記事

右側が資材にあったむだ書
 上の右と左の絵が似ていませんか。番屋のむだ書の方が時代的に古いので、国芳の作品が出る前に、このような悪戯書が巷にはやっていたのでしょか。番屋復元工事でこれらのむだ書きもまた永い眠りの中にはいりました。


(5)百姓門(西門)
  下が番屋の平面図です。絵図と上下(南北)が180度違います。十〜八の窓が写真での格子が見える窓です。
  E-gが百姓門(西門)の付近です。ここの柱に下の写真のような切込みがありました。


 この切込みで門の棟を留めていたと推定されます。文政から長屋の建つ嘉永3年頃までの門は、東から現在の門の幅1/3(下写真右上の門の写真 緑線部分)まで石垣があり右側は池で、60cm程度の狭い門と推定します。その後長屋が門の後(下写真右下の門の写真 □部分)に出来きたため、門を取り外したのではないでしょうか。
 西門(百姓門)が不要となる生活形態は、郷士の郷(農作業)の要素が無くなったとも考えられます。
 明治に入り、池を埋め荷車の往来を出来るように西側の通路を広げたと推測します。

左:番屋の柱6−gにある切り込み


下:現在の西門を内側から



下:現在の西門を外側から


● 本門の資材

 米蔵に建物の資材が転がっており、確認すると本門の資材でした。棟柱が見付かりませんが、概ね使用可能な状況でした。

 本門部材発見後、秀彦日記から次のことが判明しました。
 番屋移築の翌年昭和32年に、前面の塀が無くなったためか、中門とそれに連結した塀を本門の位置に移しています。本門の資材は
その時に解体し米蔵に保存したようです。
 本門の部材にあった建立時期を示す墨書。
左:文政十■ 寅 十一月
(寅は文政13年であり、■の部分は三が消えていると推定する。番屋竣工後、建立されている)

右:山北村四坊 大工 重八 悦蔵

左が残っていた部材から起した本門の姿図

下が昭和15年頃撮影した本門




本門と番屋の間に袖塀があるが、その部材は現在(201004)見付かっていない。戸は薪として燃やしたようです。


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