西井戸掘り
米蔵の西側に井戸があります。明治に作成された絵図に記載されているので藩政時代に掘られたと思っていました。
解体前は雑多に物が置かれていたので気が付かなかったのですが、西の端の柱に竹小舞用の穴、貫き用の掘り込みがありました。米蔵の西側の井戸の手前に突き当りの壁があったのです。この壁を取り壊して井戸を掘ったのです。
撮影 2018年9月20日
この井戸の西側に溝があります。通常、井戸は円錐に掘るが、この井戸は溝が迫ったいます。
撮影 2018年9月18日
そのため片側から掘り込んだことが、試掘から判明しました。
溝が迫っていると書きましたが、これは逆で、井戸を掘るために内側の石垣を西(外側)に寄せたのです。溝を寄せた場所は井戸から汲み上げ使った水が溝に流れ易いように平たい石が並べてあります。試掘で示した石垣を埋め溝を西に寄せ狭くしたのは、この井戸を堀る作業のためだったのです。井戸の南側で溝は少し広くなっています。その広い溝の東側(下写真左手)法面の石垣(下写真井戸囲い横棒の先)は文書「文化元年子暮本居指引幉」に文化一年に作ったとの記録があります。
撮影 2018年10月1日
井戸の内部は釜屋(釜屋の井戸参照)の前のように岩剥き出しでなく、ハンダ(土と漆喰でで固めた塗り)で固められています。最下部の湧き水を井戸に溜め、途中の壁からの雨水の直接の井戸への侵入を防いでます。
井戸枠の周囲の石の隙間にハンダを埋め、枠も新たにコンクリート塗りました。
撮影 2019年3月28日
西井戸浚え
この井戸浚え(掃除)をしました。
撮影 2019年1月23日
ハンダの壁はブラシで擦ると、剥げるので壁掃除は出来ませんでした。井戸の底はハンダで脇から水が沸いているようです。そこには桶の底、棕櫚紐の残骸が落ちていました。
撮影 2019年1月23日
水に浮かぶ、木、竹、コップなどがありました。水を十分吸い込んだ木は黒く木炭のようになっていました。試しにバケツに入れたら沈みました。
撮影 2019年2月16日
釜屋の井戸も浚えをしましたが、底にはこのような物はありませんでした。
西井戸と絵図
この井戸の上に取付られていた釣瓶の滑車が非常に大きく重厚で、多量の水を一気に汲み上げられる。滑車は大きさから明治時代に作られたと推測します。
撮影 2008年11月16日
新しい井戸に同じ滑車を取り付けました。
撮影 2019年12月17日
取り付けたロープは昔から使われていたロープです。バケツを付け汲み上げましたが、滑車が大きいので軽かったです。
ハンダは明治の又彦が好んだ建造材です。井戸を掘った時期を特定する文書はないが、明治に入り始めた蚕の糸紡ぎは多量の水を必要とします。このため西の井戸は明治に掘られた推測します。水を濁さないようにしたのもそのためでしょう。
多量の水を軽く汲み取ることができることもあり、五右衛門風呂の水は遠いが西の井戸から入れていました。叔父の話では汲み上げた水を桶に入れ運び、その後井戸と風呂を樋で繋ぎ流し込んでいた。電動ポンプが接続されても、水は西の井戸のを入れてました。井戸に接続された蛇口を捻ると、水が流れ入りました。それもどのようにパイプを連結した仕掛けか不明ですが、東の井戸からトリガーの水が必要でした。東の井戸のポンプが故障した場合、蛇口を捻ねっても西の井戸の水の吸い上げのモーターが回りませんでした。どのような仕掛けだったのか不思議です。解体されてしまったので、その謎の解明はできません。
上の絵図に蔵とあるのか米蔵、そのヒサシの左に「井」が西の井戸です。絵図では分かりませんが、今回の解体で井戸と米蔵(ヒサシ)境に壁があった痕跡がありました。その壁を取り壊し、井戸を掘ったのです。
絵図の井戸の左に西の溝があり写真の左側の太線の右側(溝は朱色で描いてあったのですが消えています)です。写真左下に牛屋、馬屋が記載されている建物がイナヤで、この建物で明治に養蚕を始めます。
この井戸のように明治に新たに作り込んだが、絵図に記載されているものは他にもあります。例えば、南面の板屏を練塀と記載、前庭の池、座敷の築山などです。絵図に描かれた建物の方向は若干違っていますが、部屋位置などは現存の建物と同じでした。修理復原工事で主屋は文化五年、または七年の状態に建て直していますので、建物(部屋構成)も絵図とは異なっています。
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