差出先祖書から消えた覺兵衛

家老付郷士と預郷士

 覺兵衛は家老付と推測していますが、自由民権記念館から平成五年度企画展で出され解説目録「土佐の郷士」に募集方法、取得時期で百人衆郷士、百人並郷士、幡多郷士、野取郷士、譲受郷士などの分類がなされていますが、家老付郷士、預郷士は記載されていません。
 家老付郷士は言葉から、家老の家に常駐し足軽として仕えた郷士でしょう。

 下の資料は廣助が文化九年(郷士職獲得後)に書いた藩外の湯治願の下書きです。
 ここに「深尾丹波殿御預り郷士安岡廣助」と記載されています。

 
 自分を御預り郷士と書きその上に地域領主の名を書いています。
 預郷士は所謂通常は農業し、いざとなれば駆け付ける農民兵で、その駆付先が書かれている地域領主なのです。
 その領主に身を預けている郷士で預郷士でしょう。
 給金が不要で非正規雇用の侍、土地所有・開拓の特権を与えられているのが預郷士です。
 家老付郷士で紹介した廻文も在郷の預郷士へ廻ったのでしょう。前述の百人衆郷士などの分類は当時なく郷士は家老付と預郷士の二種類だったのでしょう。



三弥→嘉助→覺兵衛の人生
 
 覺兵衛は、父平八正久、母公文氏の女子で、宝暦二年に生まれで幼名は三弥です。三弥数え六歳の頃の家族構成を宝暦七年の宗門改めから紹介します。

 
 これによると平八の家は使用人を含め十三人、上身内は男三人十五歳以上二人、十四歳以下一人、女二人で、下使用人御国者の但し書ありは男六人、女二人でいずれも十五歳以上となっています。内訳は長女は家を出て門田の嫁入りしているので平八正久の先妻と次女の二人に父、兄と六歳の末っ子三弥です。そこに八人男六人女二人の使用人、父平八は郷士に宝暦二年になっていますので、裕福な家だったのでしょう。
 嘉助と改名した頃の日記と思われる資料が十枚出てきました。これら十枚を月日で連結すると、二月から十一月七月欠損の日記となりました。下写真がその一部(二月から三月分)です。年は記載されていませんが、閏九月の記述などから、明和四年、嘉助(覺兵衛)が数えで十六歳の記録と判断しました。この記録からその頃、親元を離れ四坊に住んでいた思われます。


・嘉助(覺兵衛)<土地集積記録から>

 名を嘉助と改名した頃は父平八正久の養育人、父死去(天明元年)後兄平八正信跡目が引継ぎ、その兄の養育人となり郷士と同等の扱いを受けています。明和年代から安岡家の活動が香我美町史の「安岡一族の土地集状況」の項に集計が掲載されています。
 そこに「お上・お下が分家時点より有徳百姓として土地集積を行った状況がよくわかる。特にお下の状況は活発で、この状況は更に養子広助正雄の代になっていよいよ旺盛となり、・・・」とあり文書集計では権助宛は明和六年から天明三年まで百十一、覚兵衛(嘉助宛は明和七年から寛政七年まで203通、本家は平八正久享保十九年から天明元年まで88通の文書が分類集計されています。町史に先の引用に続けて「・・山北村権助の土地集積状況が、このお下の活動開始と奇しくも期を一にしていることが気に掛かる。先述のように仮に権助が安岡家番頭なりとするなれば、これは本家の番頭でないかと想像されるが断言は避けておこう。」とありますが、嘉助(覺兵衛)は宮仕と郷の仕事の半士半農であり、山北の家における仕事の代替をしていたのが権助と想像します。権助宛の最初の文書は明和六年となっています。覺兵衛十六歳に書いた日記の二年後です。権助宛の文書が天明四年で途絶え十二年後の寛政八年に一通ありますが、天明四年に権助は亡くなったのではないだろうか。その働きは大きく、地域の人にも明和時代の番頭権助のことが、各家に代々伝わり、番頭への届の宛先が権助になった。安岡恒之進内権助殿宛で安政六年にも覚の文書があり、その一例と思います。

 町史では本家の番頭と推測して終わっていますが、権助は覺兵衛とお下の基盤を築いた番頭とします。覺兵衛(嘉助)不在時の仕事、権助だけでなく妻の功績があったとの推測も言い添えおきます。
 その覺兵衛は夫婦位牌を残しています。

 



覺兵衛<諱「正元」持つ頃>

 覺兵衛と改名(革名)したのでしょうか。兄熊八は父平八が亡くなってからですので四十歳、他の改名を見てもその契機に共通性は見えません。残っている文書で年が特定できるものから覺兵衛と記載されているのは寛政九年(巳閏七月十二日から年推測)です。大工直七の預かり手形受取の文書です。


 「覺兵衛と足軽」で示した自伝を見ると寛政九年には次の記載があります。
  寛政元酉三月御咎ヲ以格禄召放候

  一□代□蔵寛政八年辰三月十八日弐人扶持
  御切米四石被下置格式御歩行格ヲ
  以被召仕己後勤方 諸々宮仕後當分

  米相勤候

 寛政元年にお咎めを受け無資格無給となり、その八年後寛政八年に再度歩行格、貳人扶持、切米四石を得ています。何のお咎めがあり、何を持って再雇用されたかは不明ですが、これを契機に改名したと推測します。

 前述の文書(口上覚/於江戸四月十一日/正姫様御婚禮御首尾好・・から既に安永七年には家老付郷士となっていますが、推測が正しければその頃はまだ覺兵衛でなく嘉助でした。家老付郷士はそれほど大きな出来事ではないことになり、郷士と諱を持つことが同時でないことになります。ですが、享和二年に兄が亡くなり、その後は家老郷士として土地集積を続けたのでしょう。諱「正元」ですが、それが書かれている最古の史料は文化元年子暮本居指引帳です。これより以前は諱「正元」があったか不明ですが、養育人の兄が亡くなった二年後、諱を持ったように思われます。提出文書の控えがないためか、その後の安岡家の人に比べると、諱「正元」で残された文書は少ないです。
 家老付郷士となった安永九年嘉助は(二十八歳ころ)、五歳ほど年下の女(ヒト)と結婚し、長女は後の安岡平四郎正利(覺兵衛の甥)妻、長男早世、次女早世、三女後の安岡廣助正雄覺兵衛養子妻、四女早世、次男辻松七歳で早世と六人の子を授かっていますが、成人したのは二人の娘だけです。

 覺兵衛は文化四年行年五十六歳、妻は十七年後の文政七年行年六十七歳で亡くなっています。墓は四坊山にあり辻松の隣に覺兵衛正元その右脇に覺兵衛正元妻と並んでいます。二人の位牌は夫婦で位牌一柱です。山北の家は明治に入り神道となり仏壇がなくなりましたが、廣助が仏壇を作ったとの言い伝え通り仏壇の痕跡があり、それに従い修理復元工事で作られます。今から二百数年前に一方が空白の夫婦位牌と辻松の位牌を置き妻は十七年間拝み続けたのです。

廣助へ<消し去られた覺兵衛>

 足軽登用に関して「貞亨元年七月廿二日足輕登庸ノ規則定ム」が出されています。これには人数が不足すれば新に要員登用可で、その時の資格(位など)も決められていません。この登用制度により嘉助(覺兵衛)は歩行(足軽)になったのでしょう。嘉助(覺兵衛)は在郷で郷士(預郷士)にならかったのは、譲受ける郷士がなかったのか、買い取る蓄えがなかったのか不明です。

 寛政八年で失職したこと、宮仕・家老付郷士の不安定で自由がないことなどに嫌気を感じたのか、養子婿廣助には在郷の安岡弥十郎の郷士職を譲り受けるよう手配したと考えます。その覺兵衛は昔では長生きの還暦前五十六歳、文化四年に亡くなっています。その終末は、文化二年四月に覺兵衛の末息子辻松が亡くなり葬儀、文化三年春三女と廣助の婚儀、文化四年江戸参勤で四月に覺兵衛の葬儀、文化五年に主屋居室部建立、文化六年に廣助の郷士譲受、旧建屋解体し、文化七年新座敷建立と慌ただしい日が続きました。

 廣助の郷士譲受で文化六年に差出された先祖書には本家の廣助実父平八正信(熊八)の跡を継いだ実兄平四郎の筋であることのみ書き、養父覺兵衛は記載されていません。

廣助差出先祖書

 先祖書き差出

 一私儀今巳三月安岡彌十郎郷士職分

  領知共譲請郷士ニ被召出願奉度候

  本願候処願通御召出罷

   但私儀郷士安岡平四郎實弟

    御坐候

 以降の差出された安岡家の先祖書には廣助の実父系列のみ掲載され、家老付郷士「覺兵衛正元」の名は出て来ません。郷士届出で差出す先祖書などから抹殺されていますが、覺兵衛正元が築いた基盤の上の建物は修理復元され永く残ります。

 <廣助と郷士生活はこちら

●安岡家の歴史の安岡家(お下家)の歴史ページへ

安岡家住宅<重要文化財>先頭