苗字ついて        

 頁「郷士生活の開始」でも苗字について記載しました。中学の授業で教わったは、「江戸時代、武士以外は苗字帯刀を許さず」の名字許さずについて疑問を持ちました。古い江戸時代に建立された墓を見ても苗字は書かれています。
 ですが、文書などには苗字が書かれていません。名前の前に字名(地域名)、店の名前、職業名が書かれていました。「苗字許さず」でなく、苗字を名乗ること許さずが正しいように思います。
 安岡に残った文書でその例「天保十二年米賣時貸諸扣」を示します。、米などの取引を記載しています。

 

 
                                    永田屋 俤之助↑
 
                         ↑大工/悦蔵
 永田屋、赤尾(地域名)、大工などに続いて名前が書かれています。
 今でも同じ苗字が多い地域では、親しみもあるのでしょうが、名前で呼びあいます。狭い地域では同じ苗字(親子、兄弟も含め)があるので名前の方が個人が特定できるように思います。それで名前で呼んだり、書いたりするのではないでしょうか。
 明治に入り、土地に縛られなくなり、姓で名乗ることになり、苗字が付与されたとの考え違いがあるのではないでしょうか。
 苗字は連綿と各家で引き継がれていると思います。


諱と郷士について

 郷士生活の開始で諱を『安岡覚兵衛正元の苗字「安岡」・・覚兵衛が通称、正元が諱(いみな)と呼びます』と紹介しています。この時、四坊山の安岡墓地で明治以前の全ての青年男子の墓標には諱があります。それで、覺兵衛に諱「正元」があることは、当たり前と思っていました。
 安岡の墓地近くで死亡時期が江戸時代の墓標に諱はないのがあります。家系図でも諱ある人とない人がいます。家系図を読んだり、図書館で郷士年譜を見て、この差は郷士であるか否かと推測しました。
 安岡(お下)の最初の郷士は文化六年に譲受郷士となった二代目廣助となっていました。
 初代の覺兵衛に何故、諱「正元」を持っているか疑問が起きました。
 文書で残っている「正元」は次のの文化一年の「子暮本据指引楪」が最も古いです。
      


覺兵衛と足軽

 これまで前掲の「天保十二年米賣時貸諸扣」のように複数頁が綴られ、作者がはっきりしているのに注目していました。これら以外に、襖や壁の下張りから出て来た切れ端のような文書があります。
 その一つに安永六年から文化四年までのある人の経歴が書かれたのがありました。
 次の写真がそれで前切れで最初に見える年号が天明ですので、先頭の行は安永六年としています。

 その文書の翻刻及びその後に付でコメントを示します。               
*前欠損
 之御作配受□少仕以□外御銀罷出
 被下候
 同六酉十二月爾来役方警固二相勤
 □□為御褒美御米六斗下被候
 同七戌三月福岡内丞御用方為少々  山内公紀史料 第二十五巻 福岡の名あり
 当時壱人勤被仰付候
 同年九月尓来役方警固□出相勤
 御蔵格式御用人ニ御引□被仰付
 同年十二月御□間御用方兼帯勤
 被仰付候
 同八亥二月麻田新五右衛門御用方為少々
 □被仰付候                   山内公紀史料から
 天明二寅正月尓来役方警固相       天明二年六月麻田新五右衛門仕置役免ぜらる
 勤ヲ□為御褒美御受御米六斗下被候
 同年十月尓来役方□差□
 兵勤為出被仰付候
 同三卯八月二日石瓦三左衛門御用方為少々段
 被仰付候毎壱□□満御米八斗拝領被仰付候
 同四辰年二月十一日本御蔵役被仰付候
 寛政元酉三月御咎ヲ以格禄召放候
 一四代□蔵寛政八年辰三月十八日弐人扶持
 御切米四石被下置格式御歩行格ヲ
 以被召仕己後勤方諸々宮仕役當分 *諸々から□米〜候は〜勤方の下に書き足しカ
             □米相勤候        
 一寛政十二申年二月廿六日若殿御祝分□□ 廿六日を後から書き足し
 思召為先祖之代數被□残□候
 享和二戌年 登三郎様御歩行勤   登三郎(豊雍(チカ)三男 本「土佐藩」の系図から
 當分被仰付候               登三郎様の様は後から書き足し
 同三亥年春右勤事定役ニ被仰
 付御足米ヲ以六石高被仰付候
 同年冬革名奉願権次郎与相卒
 同四年子年春尓来勤事ヲ以御福上役
 兼勤被仰付候
 文化二丑年春 御橋上相勤を以
 相御役付御召拝領被仰付候己来□用
 御免被仰付候
 同三寅年 御召下候御上下□□
 被仰付立柏御勤付着用御免被仰付候
 同四卯年 千代三郎様御歩行勤     千代三郎(登三郎の長男)寛政12年3月25日誕生
 急病仰付候               前掲の「寛政十二申年二月廿六日若殿御祝」と一致。

 文化4年に覺兵衛は亡くなっています。再掲しますが、次の記載があります。
     同四卯年 千代三郎様御歩行勤 急病仰付候
 最後の 「急病を仰せ付けられ候」何か意味不明です。
 その箇所の拡大を次に提示します。何か分かれば教えて下さい。

 安永六年から文化四年までが数年おきに各年二行程度で家老とか、若殿の歩行(かち 足軽)を相勤めたと書かれています。お下の人であれば時代から覺兵衛の25歳から55歳の記録と推定しています。
 覺兵衛は歩行(かち 足軽)として、寛政の時代に書いていますが、「諸々宮仕役」勤めたいたようです。


家老付郷士

 足軽も武士ですので、覺兵衛は諱を持つことができます。
 この足軽時代に書いたと思われる文書もありました。それを次に示します。

                                                                      この文書には次の二つの通達が書かれています。
 前半は「覚戌年より/一柏老山御留山此度鹿/狩・・」に関する廻状の控え、後半は「口上覚/於江戸四月十一日/正姫様御婚禮御首尾好・・」の口上による通達(御触)の控です。
 正姫の婚礼は安永七年の山内公記史料に記載され、月日が上の資料のと一致します。
 後半の資料には家老付郷士、預郷士(上資料「」の箇所)の記載があり、各々に通達されたとあります。
 この通達を覺兵衛は福岡内丞の足軽で受けたことになります。
 同様な資料が複数あり、覺兵衛は家老付郷士であったことになります。
 貞亨元年に定められた「足輕登庸ノ規則」によると親子で足軽は引き継ぐことができますが、廣助は譲受郷士となります。何故でしょうか。
 また、覺兵衛は在郷郷士にならず家老付郷士の道に、何故進んだのでしょうか。
 初代が家老付郷士であったことを考慮すると建物の建立、試掘遺跡などついて色々と考えられます。
 

 <廣助と郷士生活に続く

●安岡家の歴史の安岡家(お下家)の歴史ページへ 

覺兵衛に何故諱があるのか