2015年7月3日訂正
譲受郷士

 安岡家の本家(岡芝)が宝暦2(1752)年に郷士になり、天明8(1788)年お上家十作が郷士となっています。そして、お下家の廣助が譲受郷士(新規郷士の1種で郷士の職分と領地を購入し郷士となる)に文化6(1809)年になります。 お下家の一代目の覚兵衛正元は『文化元 子暮本居年根引帳』(土地貸し台帳)が残っていますので、それなりの土地を持っていました。廣助は家督を相続した直後に郷士を譲受けていますので、資産的に既に問題はなかったと考えます。何故か在郷の郷士にならず、家老付郷士となった。(覺兵衛に何故諱があるのかを参照)下表のように文化年代は譲受郷士も多いので、在郷郷士になる機会はあったかと思います。
 次表の「藩からの取立郷士」は家老付郷士などでなく、世代間で士身分が保障される郷士でしょうか。

 資料『土佐の郷士』(高知市立自由民権記念館発行 平成5年度企画展 解説目録)によると、その他の新規郷士には、免売郷士、野取郷士などがあり、初期郷士としては慶長郷士、百人郷士と分類されるようです。
 また前述の資料から、藩から取立てられた郷士と譲受郷士の年代別遷移、文化年間における土佐の郷士居住地の分布数を以下に抜粋します。

1751~ 1761~ 1771~

1781~

1791~

1801~

1811~

1821~

1831~37

藩からの取立郷士

12

譲受郷士

20 37 46

55

53

36

46

46

40

 前述の資料から1600年〜1770年での譲受郷士数は、20.73人/10年であり、江戸時代末期には増加の傾向があります。譲受郷士数がピークを迎える頃にお下家でも郷士を取得しています。

幡多郡

不明

高岡郡

115人

吾川郡

40人

土佐郡

106人

高知城下

24人

長岡郡

188人

香我美郡

203人

安芸郡

73人

 香我美郡が郷士数が他の郡より多い。香我美郡が生産性が高い地域だったのでしょか。
 江戸時代の人口は3000万とし、現在の人口と単純比率計算(香我美郡は香美市、香南市を合わせ63000人とする)すれば、香我美郡は約14000人となります。
 郷士が家族単位であるので、5人家族とすると2800家族に対して203家族が郷士家族(約7%)になります。天保5(1834)年には、安岡家の本家、お下家、お上家、お西全て郷士になっています。山北の地区には前述の7%に対して密度の高い状況ではないでしょうか。
 これら郷士の4家族が、各々藩政末から明治維新の揺籃を受けることになります。


お下家での郷士生活

 前回(郷士生活の開始)での絵図で乗馬用の馬屋を描いていませんでしたが、郷士となり乗馬できることはステータスであり、あったと思います。
 郷士としての自己向上のため、文武修行を行なっています。廣助は次のような研鑽を行なっています。

 ・学文幼少之節田宮宇内弟子丹て修行以多し其後寛政十三□年中村隆蔵殿弟子ニ相成修行以多し候
 ・馬術之儀幼少之節下田惣右ェ門方丹て内稽古仕其後西川久右ェ門殿弟子ニ相成候
 ・弓幼少之節父平八取立丹て文化四卯年加藤鍋右ェ門殿弟子ニ相成修行仕文化十三子年中伝相済候
 ・剣術幼少之節門田宅右ェ門殿弟貫三郎取立にて其後文化五辰年手嶋半太殿弟子加支組忠次弟子ニ 相成中伝相済候
 ・高木流柔術文政二卯年清水善平殿弟子ニ相成修行以多し候

 郷士として、または山内家に仕える家として、文武を研いています。上の履歴で学文と馬術は幼少から始めていますが、弓術文化4年に弟子入り、剣術文化5年に弟子入り、柔術文政2年と郷士譲受の前後になっています。柔術の弟子入りは約38歳の時であり、新たな挑戦であれば驚きです。
 長男源右衛門も同じように修行しています。源右衛門の弓術の資料写しは、10数冊残されており親子で射場で修行に励んでいたことが想像されます。その子供(廣助の孫)たちも同様ですが、弓術が廃れ砲術が追加されていきます。
 客間を建て家老などが止宿したり、武芸の見分を受けることを誇りしていたのでしょう。
 また、外国船からの海岸警備の指令を受け、『異国船渡来の節早速かけつけ』目付より、褒詞を受けています。
 
 天保七(1836)年に文助日記から土蔵建て直しています。道具蔵は移築ですので、この土蔵とは米蔵のことと思います。覚兵衛正元の時代に建てたとしても、古くはないですから、大きく建て直したのでしょうか。そうであれば、この頃さらに石高(収入)が増えていったのでしょう。
 同じ時期に、『先祖祭り』を始めています。20家族弱で始めたお祭りですが、現在も夏と秋年に2回開催しています。現在は10家族ほど参加しています。

先祖祭りのお宮は岡ノ芝と浅上王子宮付近にあります。
上が岡ノ芝付近
2006/11撮影

下が浅上王子宮付近
左下以外 2006/11撮影
岡ノ芝のお宮はミカン畑の中にあります 鯛などをお供えします



お宮の上の木立の中にあります
現在はお宮からは見えません。
2005/9 撮影 3基のお宮並んでおり西側が安岡家 お宮の前の鳥居


郷士の引継ぎ
 
 天保12(1841)安岡廣助正
雄は死亡しました。廣助の長女は早世しましたが、その後女1人、男子5人に恵まれ、次女は本家へ嫁ぎ、長男源右衛門はお下家を相続し、次男文助は郷士として近くに住み(お西家の祖)、勘十郎は公文家へ養子、隆蔵は傍士家へ養子、俊蔵は別役家へ養子にいきました。これが布石で今後の流れに浮かび上がりながら、時の流れにお下家は漂って行きます.。


  廣助の墓は、本家の祖平八正久と同じ大きな墓石で、以降の家人を従えるように建っています。

 <揺籃の時代へ続く>

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