絵図に雪隠と書かれています。古い農業書に雪隠は、所謂トイレでなく肥溜めとの記載があります。昭和の時代でも、台所の汚水を貯め畑の肥しを作っていました。
大きな貯水用の大きな穴が二連あります。
解体工事後の組立工事を雪隠組立工事に紹介します。
大きな傍士栗の下に命を永らえていました。
この傍士栗は中国より持ち帰ったので敗戦前には別名で呼ばれていました。接木に成功した栗
傍士駒市氏がこの栗に関して研究し昭和7年に本を出しています。
その栗山に見学者があったと秀彦の日記に記載しています。
その研究で接木に成功(昭和16年撮影)した写真が残っています。
この栗の子孫ですのでこの栗の木、昭和16年生まれ2013年で72年、
古希を越えた樹齢になります。
その栗に覆われた雪隠の瓦、土を取り除くと、その下は西側と東側で作りが違っていました。
西側はヨシズまたはワラ
東側は直径約30cmの檜の連続した皮でした。檜自身はどこに使ったのでしょうか。
西、東いずれも竹でとめていました。
これらを取り除くと
長い割竹一本で屋根幅一杯に横一列に並べられていました。
このとき、棟の部分から和紙が出てきました。
場所としては後からでなく、建てたときに置いたか、忘れた物と推測しています。
このゴワゴワに絡みついて開けられなくなっていましたが、凄い技で開き解読して貰いました。
⇈「中川」
文久元年の根据差引帖に
⇈「せつちん」大工重八の作業記録
建物から墨書が出て来ませんでした。絵図に6ヶ所雪隠の記載があります。
丸めた和紙の「中川」をキーで文久元年の資料を探したましたが手掛かりはありません。
文久元年の「せつちん」記録とこの建物とは特定はできていません。
軸部を取除くと大きな穴が見え出しました。
南側(上写真の下側)の穴は石積みで囲まれ、三和土か?で固められられています。
北側は昭和に入り汚水を溜めるためコンクリートで周囲を固められています。釜屋付近から汚水の導管を引き溜め肥やしとしてしたようです。その口が見えます。
解体工事で釜屋付近のコンクリートを剥ぐと土管が出てきました。
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汚水を溜め込むプール(ジズ)もあるようです。
上写真の左側穴が土管の割れた箇所です。昭和の遺跡です。
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