竹節欄間と金比羅宮表書院
時々夜行バスで高知へ行きます。高知は淡路島を渡って徳島に入ってリレーバスに乗り換えますが、バスは琴平が終点なので、そこまで行って名所の金刀比羅宮へ寄ることにしました。奥社まで行って、戻るときに重要文化財に指定されている表書院を見学に行きました。円山応挙の障壁画が有名です。その七賢之間と虎之間の境に竹の節欄間がありました。
上の写真は、表書院は撮影禁止なので、金刀比羅宮発行の「円山応挙 障壁画」パンフレットから抜き出しています。
少し薄灰色ですが、実際は漆塗りで黒で輝いています。
客間の竹節欄間に良く似ています。客間の竹節欄間を以下に示します。
部屋の大きさの違いで、金刀比羅宮の表書院の幅が広く(2連)になっていますが、結界の半×二本構成も同じです。
形状は竹節欄間色々あることを竹節欄間のページで示していますが、これ程似るとは同じ設計図で作ったと思うほどです。
この形式類似に驚き、番屋復元などで見た規制、規定を次に紹介します。
家の格式と規制
家の格式(*)で家の建て方などに規制があることは、資料で読んでいました。
前項の竹節欄間に漆が塗られているか否かも、その一つかも知れません。ページ
「子年菊日記」で紹介しましたが、障子、床框などの漆塗り工事をしています。客間を建てた時には、その格式が無く、文政11年にその資格を得たが、欄間まで漆で塗る事を許されない規制(規約)があったのだろうか。
番屋復元工事で知ったのだが、以下の様に縦格子が武者窓で、横に格子が入ると与力と呼ぶそうです。
* 家の格式 武者窓か与力窓かも一つの家の格式で決定するのでしょう。
郷士資格ではどのように格式が決まるのでしょうか。
所謂、税金の納付の高で決まるのでしょうか。
規定の形式
番屋復元で上の武者窓がある部屋以外に馬屋があります。当初馬屋は単に囲いだけあれば良いと思っていたのですが、軍馬になると規定の形式があるようです。
馬屋の上の梁に猿耳(以下の写真で各々馬屋に2個)と呼ぶ馬の腹帯を掛けるもの置く必要があります。
さらに手綱を掛ける鐶と呼ぶ金具、絵馬を掛ける金具も置く必要があります。絵馬も猿が馬を曳く猿絵馬と言うことも規定されています。
このように馬屋でも規定の形式があるので、通常での建物、門、塀などにも規定があるのでしょう。
大工の自由な移動
家の格式で規制される建て方または、建物に決められた建て方について、施主からどの様に指示が出されるのでしょうか。 詳細な設計図が渡されるとは思われないので、xx格式で建てるように、xxを建てるようと棟梁へ施主から指示の言葉があり、それに従い建築が行われるのでしょう。
棟梁は格式と建築規制、建物の形式に関して、どこで学ぶのだろうか。図面などの資料で伝承されるのでなく、実地、現場で見て覚えて行くのでしょう。山北など地元では建てる種類が少なく、学ぶにしても、職を得るにしても大工は生まれた地に縛られない自由な行動ができたと考えます。
大工は、「入湯願指出」ページで示したように一般人に必要な面倒な手続き無く、移動が認められていたと推測します。
番屋、本門の棟梁の重八は31,2歳ですので、これらのことをどこで何時頃、学んだか、その後も山北・四坊に住み続けたのか、興味があります。
このような家の形式、規制をどこで、どのように大工が学習したかは、推測で裏付け資料はありません。
どこかに伝承用の図面と残されているとか、大工の移動のことなどご存知の方からの
連絡をお待ちします。
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