・猿の屏風           20230606改訂
 
 平成の復原工事で蔵を整理していると、中から猿が描かれた六曲一双の屏風が出てきました。工事が終り、紙が剥がれていたので表装を直しに出し、紙の汚れも落とされ戻って来ました。
 一般公開で何か展示をとの話があり、屏風を展示することにしました。
 大きく、座敷の床の前では床の間が隠れ、居室部では部屋が狭くなり飾れません。なんでこんな大きいのが家にあるのか不思議でした。

 作者名及び印はありません。公開展示前に地元の方が猿の書き方から森狙仙の作ではないかと推測されました。森狙仙は延享四年〜文政四年大坂で活動した人です。記名が無い理由の探求は置いといて、何故家にあるかを次のように推測しました。
 廣助は 有馬温泉で病気療養を理由に藩から許可を受け藩外に出ます。有馬温泉に寄らず文化九年三月から、金毘羅山、大坂を通過して奈良から伊勢神社、京都、再び大坂に戻る旅をして五月始めに帰高しました。高知に帰る前に京都と大坂に二十日間留まっていました。この長逗留間の記録が残っていないので何をしていたか不明ですが、廣助が大坂に長逗留した時期と、森狙仙が大坂で活動した時期が重なるので次の仮説をたてました。
 まず、廣助は大坂で米の直接売買契約の締結を目論んでいたと思われる。その仕事中に森狙仙の絵をどこかで見て購入、または譲られる。それを家に持ち帰り、座敷中央の襖絵にした。絵の枚数と襖の枚数と合わないことは今後の検討課題とする。

 明治に入り、又彦が養子に来て襖紙を剥がし屏風にする。紙を剥がした襖などの襖紙を網目模様の薄茶色とする。この襖紙は、又彦が明治に作った地袋、天袋の紙と同じで、取手を金属細工とし、同じように木で作られた襖の取手も金属細工とした。
 この屏風作成の推測は屏風の表装を直して頂いた表装屋さんに教えて頂いた次の情報に基づいています。「屏風の下紙の漉き方から、屏風が作られたのは明治終りから大正始めとかんがえられる。」
 座敷の床の間の壁は漆喰塗りでなく、貼り紙(痕跡が有)で、白紙でなく何か書かれた紙だったのでしょう。又彦は壁の貼り紙も剥がれそうであったか、または貼り紙の内容を嫌い剥がしました。もし、貼り紙が気に入っていれば、剥がれそうな紙を貼り直したでしょう。直さないで貼り紙を剥がし白漆喰の壁にしました。
 貼り紙の絵柄は不明ですが、又彦は座敷を白、それに近い薄い色でまとめていますので、貼り紙の模様は華美だったのではないでしょうか。
 明治に修理した又彦の座敷の色合いは黒そして白系統の単純色でまとめています。南面の塀の外側は黒、内側は白漆喰とし、壁も漆喰の白で襖も白に近い色を選んでいます。漆喰は塗った直後、黄色が交じっています。現在の座敷は五年過ぎていますが、漆喰壁に黄色が残っています。又彦は若くして亡くなっていますので真っ白な漆喰壁を見たのだろうか。
 壁に四分一(黒枠の細い棒)は貼り紙を留めるために使用したと言われています。

 貼り紙を剥した後も残しています。
 もしかしてデザインとして又彦は残したのかも知れません。
 高知に帰る前の京都・大坂滞在の記録として、京都の感神院(現在の八坂神社)のお札が残っています。高知に戻って、文化十年に移築建立した道具蔵に貼っています。
 以下が解体前の道具蔵の入口です。
 
 平成復原工事では札購入時期が時期が異なる可能性があるので復原されていません。
 道具蔵の漆喰の扉、解体前はこの位置まで動かしていたのです。現在は、漆喰の扉はビクともしません。
 大坂での売買契約が成立していたから、地租改正で乕次郎、房の若い(幼い)夫婦が荒波を乗り越えられたのではないか。
 その後、乕次郎(正風)が家を出て、又彦が養子にきて、家を立て直します。
 
 

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