・青苔日厚處           20231017新規
 
 青苔日厚處の書は平成の復原工事まで座敷に掛けられていました。
 大きさは1860x590x40と大きいです。

 アクリルカバーがあるなど、この額の表装は昭和の後期と思います。
 「青苔日厚處」(せいたいひあつきところ)を読み解いてみます。
 書「青苔日厚處」に次の跋文があります。
 明治廾四年辛卯之新正,偶試兎毫。作古隷意窈。倣銭梅渓之法、不容私意。
 然不知髣髴。其万一否益、其所不及却有妙味。一哽一哽。
 聴濤堂主人、観以為如何。  藜□居士 迂尚 陽刻・家在紅林深処
 明治二十四年辛卯(シンボウ・かのとう)の新生、偶(たまたま)
兎毫(とごう・兎の毛の筆)を試す。窈(ひそか)に銭梅溪の法を倣い古隷の意を作る。
私意を容れず、然れども髣髴(ほうふつ・よくにていること)たるを知らず。其れ万一、
否、益々其の及ばざる所却(かえ)って妙味有り。一咲(笑と同じ) 一咲。
聴濤堂主人観じて以って如何と為す。
蘂薬居士 □尚 
 (翻刻 鷹見耕さん)
 藜□居士から聴濤堂へ送られています。聴濤堂は明治二十年に胡鐵梅から又彦に送られた山北の家の様子を書いたものです。又彦はこれを気に入り自分の号としていました。

 書「青苔日厚處」は明治二十四年に作者「蘂薬居士 □尚」は不明ですが、内容から兄別役儁(春田)から又彦に送ったと考えます。

 この書は次の七言絶句を参考し、作ったと推測していました。
克重陰蓋四鄰克重陰蓋四鄰  りょくじゅちょういんしりんをおおう
青苔日厚自無塵  せいたいひにあつうしておのずからちりなし
科頭箕踞長松下  かとうにしてききょすちょうしょうのもと
白眼看他世上人  はくがんもてみる たのせじょうのひと
(岩波文庫『唐詩選 下』より訳を抜粋)
緑に茂る木は深い蔭を作り、四方をおおって入る。青い苔は日ごとに厚みを増すので、地上には塵一つ無い。君は高い松の木の下で、頭はむき出し、大あぐらをかきながら世間の俗人どもを、白い眼でにらんでいる。

 兄はこの書で弟に何を言ったのだろうか。

又彦と政治活動
 流離譚に又彦の手帖を引用した次の記載があります。
『・・三月十一日出帆ノ汽船高知丸ニ搭ジ、浦戸港出帆。船中、別ニ記スル事ナシ。
として、以後、神戸、大阪,奈良、伊賀上野から東京をまはつて、遠く仙台、松島まで遊覧・・同行者にも明治二十三年のときの・・自由党関係者の名前はないし、・・政治家たちとの邂逅や訪問の記述も、「植木枝盛君ノ葬式」といふ一行を除いて、まったく出てこない』
 このことから明治二十三年以降、又彦が政治運動から冷めていたと、流離譚は書いています。
 同じ頃の土佐自由民権運動日録(土佐自由民権研究会)を参考にすると、自由民権の集会参加記録を見ると、明治23年に安岡又彦、別役儁の名あり集会に参加しています。その頃か、二人は自由民権運動の集り「洋岳社」の社員になっていました。その後に名は出て来ませんので、流離譚の書いてある通り、又彦は政治運動に参加していなかったのでしょう。

書「青苔日厚處」を兄が送った意味は?
 「洋岳社」の社員になった後、又彦が政治活動から離れたのは事実です。
 もし、政治から離れたことを非難する意味で「青苔日厚處」を兄が送ったのであれば、引用したと推測した漢詩「青苔日厚自無塵」をそのままで書けばよいと思います。
 又彦は養蚕そして製糸まで事業を広げようと、梁川に蚕の研修に行き、明治二十五年に研修を受けたことを示す證明書を受けています。
又彦はその後。養蚕業を手広く行い、縣の勧業諮問會員となります。
北陸で行われた養蚕の品評会の審査員としても行きます。
 この書を兄が弟に送ったのは明治二十三年が明けた頃です。
 こんなことを想像しました。
 明治憲法が明治二十二年に発布され、議会開設で又彦は自由民権が自然に広がると考えました。この考えを持った自由民権運動家は他にもいました。又彦は、政事の世界でなく、実業の世界を目指すと兄に明治二十三年正月、言ったのではないか。兄はその実業の世界を青苔に例え、日ごと厚くなる仕事を目指せと励ましたと、読みました。
 自由民権の考えは広がりませんでした。又彦は請われて県会議員になります。事業が大成する前に三十五歳で亡くなります。

 
 

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