・物据などの祝い膳 202506改訂
この物据(ものずえ)は料理を置く台です。
物据
客人が座る席(宴席)から離し置き、宴席の内側に家人または接待の人が分け、客人に配ります。客人は自分の前に置かれて銘々善に小分けした料理を置き頂きます。
銘々膳
以降の漆器名称は、箱書き、または専門家の漆器調査結果によります。
これらの膳は明治38年に県外から購入した品です。曽祖父(明治33年逝去)の5年祭で使用(1年祭は別のがある)するために購入したと思われます。
購入は能登からです。曽祖父は死去の直前、養蚕の仕事で北陸に行っています。
その時に能登の漆器を見て、気に入り妻房に購入を指示し亡くなった推測します。
精進料理では料理を出す順番、その料理を載せる膳が決められています。ここで紹介した物据は使われないのでしょう。
龍馬記念館の展示で『武家の女性』(水戸藩士の娘が母親の昔語りを記す)を引用し、日常食事で銘々膳を使用したとしています。日常の各自の食事には箱膳が使われたと思います。何故か、我が家に箱膳が残されていません。
銘々膳の使い方は決められていないようで、各々の前に置く膳なのだろう。土佐年中行事絵図(城博パンフレットから引用)の「雛祭り祝の宴」では中央の料理を囲むように客が座り、客の前に膳があります。
城博パンフレット)掲載の「雛祭り祝の宴」
芸者さんと思われる人が、酒を勧めたり、料理を運んでいます。推測すると座の中にこれらの人が入り、お客に酒を注いだり料理を勧めるのでしょう。
絵図には物据らしきものは見えません。これに倣い物据と銘々膳で小規模宴席を作ってみました。
城博パンフレット行事絵図を見ると料理を載せるために物据が使われていませんが、絵図の中央右下に皿鉢らしきものが膳に載っています。家の宗和膳(下写真)の大きさが皿鉢に合いますので、これと同じような膳に皿鉢を載せたのでしょう。
左の大皿の膳は不明、大きな魚は小机に載せているようです。皿鉢の宴が盛んになったのは明治以降のこと ですので、皿鉢と物据の組合せた祝いの宴席は明
治以降でしょう。
宴席を盛り上げる大きな飾棚を紹介します。
上は写真が、蔵に仕舞われていた飾棚です。秀彦日記などを参考にすると、男の初節句で使用したようです。短い角棒の上に板を置き五月人形、武具などを飾ったのだろう。この棚の寸法を測ると座敷本間の床の間に合います。床の間にこの大きさの飾棚を置いた図を以下に示します。
飾棚を床の間に置いた想像図
棚板を載せる角棒が付けられていいる釘は、和釘と洋釘が混在しています。明治18年頃に行われた祖父の初節句祝用に飾棚が作られ、和釘で作り込みました。
明治45年頃に行った祖父の息子用(父)に飾り多くする為、洋釘で角棒を追加しています。父の初節句での祝い宴の記録があり、城博パンフレットに描かれた居るように接待を行う人を雇ったこと、振舞った酒量などの記録が残っています。
ここまで祝いの席を紹介しました。法事の席はこのような宴ではありません。自分の経験及び古い写真を見ると四坊の部落では通夜、葬儀で会食することはありません。部落の人は葬儀前は葬儀で使用する道具作り、墓穴堀など葬儀の準備し、
葬儀列の役割を決めます。葬儀が終っ た後に御礼の品(酒など)が喪主から渡され、ご苦労さん会をしました。
しかし、年忌祭違います。1988(昭和63年)に家で行なった年忌祭では物据を座敷机として使い、各席に置かれているのは銘々膳でなく盆でおこなっています。
これらの手順・料理の内容は地域または家で異なるのだろう。我家では年忌祭は久し振りの親戚の集りの感があります。
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