以下の冊子は安岡由喜叔母著「安岡家の歴史」からの転記で、写真及びコメントを追加しています。


年末とお正月の行事

これは、母佐喜に話してもらった言葉を軸にして、その席に居合せた兄夫妻、妹の助言を加えてまとめたものです。(注 再編集者 本冊子後、「家を支えた先人たち」出版で訂正された箇所があり、それに基づき書き直しています) 十二月二十八日  餅搗

 早朝、暗いうちから餅搗きである。雑者餅、お供え餅、饀餅など昼過ぎまで搗いたということである。二十九日には搗かないことになっていた。それは「く(苦)がつく」と縁起をかついでのことだと聞
いた。

 
 饀餅が出来ると餅くばりである。四坊部落の各家と日傭さんの家に配った。日傭さんの家には、おもちの入ったお重箱の上に、別珍足袋や、ネルの腰巻、八つ折れという流行の履物やゴム裏草履、それから帳面やクレヨン等、それぞれの家で喜びそうな品を添えて配った。お配り役は子ども達で小走りに馳けて行ったものだ。軽くなった帰りの重箱の中には、畠でとれた甘い「かんしょ」(さとうきび)の十糎位に切り揃えたのが二、三本入っていたり、当時火を移しつけるのに使った「付け木」の一束や「四つ折りの白い半紙」、真紅の「小紅(こべに)みかん」などそれぞれの家が思い思いのお返しの品々を入れて下さっているのは楽しかった。これらの習慣は太平洋戦争後にやめた。農地解放により、地主と小作の関係が変わったからであろう。


 十二月二十九日 七五三ヌベリ

 五、六人の男衆をやとい、おしめと輪じめづくりである。幾束もの藁そぐりから始まり、勝手の土間で夜更け十二時頃までかかった。一番大きいおしめは直径二十糎ぐらいで、これはお成門に飾る。次に大きいのは本門、だんだん小さくして中門・西のくぐり門・庭の中門・西座の入口・東の土蔵の入口・西の土蔵の二つの入口、というように約十個位作った。
文政の本門の冠木の滅多打ちされた釘跡(
関連記事文政13年本門の謎)何か不明でしたが、文政時代から昭和初期までの行われた「おしめ」飾りを考えれば当然の釘跡と思うようになった。

       秀彦の日記に「七五三ヌベセリ」と記載がある。
       注連縄、環締め作りのことか。

 輪じめは数多く百個余りつくっただろう。これは有岡山と四坊山の墓の一つずつに供えた。その他、氏神様・御先祖様・お正月様・水神(すいじん)様・臼の神様・唐箕(とうみ)の神様、門口の神様、その他、はしかの神様・ほうそうの神様といって、表座敷の縁側にならべる。まだある。東の土蔵の入口一箇所と西の土蔵の入口二個所と、せんちの神様。水神様とは家の北西の角にある喜三郎夫婦(四坊に住み出した人)の線刻地蔵・観音のことであろう。
 それから深尾様というように数多くの神々に輪じめを供えた。深尾様
というのは先祖のことである。はしかやほうそうの神様は恒之進の病死(大坂で病死したという恒之進)と関係がありそうに思うと佐喜は言う。

*ほうそう(疱瘡)の神様の祭「病退治祈願=祇園祭り」は冷泉家にもあった。
安岡家独自のお祭りではありません。京都の祇園祭りも病退治の祈願でした。
山北の遠崎地域で祇園祭をしていると聞いた。


 
十二月三十日 さいわいさま

 「さいわいさま」という門松飾りをする。さいわいさまというのは、椎の丸太を長さ六十糎ぐらいに切ったもので、これを地面に据え置き、切り口の割れ目に松竹梅の小枝を挿すだけで出来上る。

 この「さいわいさま」は前日おしめ飾りで浄めたお成門、本門、中門、西門。それから築地内庭への入口、屋敷から畠への出入口。それから東の土蔵の入口、西の土蔵の二つの入口。これらの入口の左右の柱のもとに置き飾りつける。いわゆる門松である。

 この「さいわいさま」は、飾る門によってそれぞれ太さが異なるが、いずれもかなり重いので移動の時は、二人の男がふごに載せてかき棒で運ぶのである。一番太いのは直径三十糎余りであるが次第に細くなり、一番細いのは直径十五糎ぐらいである。どうやら由来のある一本の椎の木からつくつたものかも知れない。何時の時代に始まったものかわからないが、これ以上経済的な門松はめったにあるまい。正月十五日が終われば、松竹梅の小枝はとりのけられ、来年の十二月三十日まで暗い西の蔵にしまい込まれるのである。

 *幸木を絵金蔵で知りました。正月の行事として次が書かれていました。「前略 門松の下には幸木がめぐらされ、腕木と呼ばれるがされ縄を吊り下げる。門付芸人は顔を黒い頭巾で覆う、現在でも安芸に伝承される一ノ宮万才の姿である。」 絵金蔵に絵金が正月風景の絵を描いたかと問い合わせると絵金はそのような絵は描いていないとのことでした。インタネットで調べると門松の竹などをまとめるのがたのを幸木と呼ぶようです。さいわさまはその流れなのでしょうか。

 十二月三十一日
大晦日はお料理づくりとお供えで忙しい。お料理は赤ごはんとお煮物とおせち料理である。その上、正月三日間は一切料理をしてはいけないので、大晦日のこの日は「三日分の御飯を炊かねばならないし、漬物も沢山に切り、松魚(かつおぶしも一本は削っておかねばならないので忙しいことよ」と佐喜は語る。  赤ごはんとは吉米に小豆を混ぜて炊きあげるごはんである。お煮物は畠でとれた大根・蕪・人参・午蒡のほかに、こんにやく・焼豆腐・青い糸昆布を雑魚のだしで大鍋で煮る。 この二つのご馳走を木皿に盛りつけて、輪じめを飾った御先祖様をはじめとする例の数々の神さまにお供えする。夕方暗くなると、これら神々には、ローソクに火を点してあげたのであるが、佐喜は次第にこの習慣をやめたと言っている。 おせち料理は数の子・黒豆・たたきごぼう・紅白のおなます等をお重詰めとする。  大晦日は料理だけではなく、お飾りが忙しい。お正月様といって、西の蔵にしまってある棚を出してきて、この上に黒塗に赤縁の角盆をのせ、ローソクと輪じめをのせ、その他に料理の盛りつけた木皿を供え、氏神様から配ってきたおふだを貼りつける。お正月様にはお箸を揃えるが、この箸は直径一糎余りある太いまるい白木の棒の一対である。このお正月様とよぶ棚は勝手の部屋の片隅の天井に、来年の明き方(あきほう)に向けて吊した。 「これは節分まで置くものじゃそうよ」と佐喜は語る。
 次はお三方(さんぽう)の準備とおかんしの準備である。お三方と呼んでいるのはお正月飾りのことであり、「丸に剣花菱」の安岡家紋章入りの蒔絵黒塗のお三方(下右側写真)の上に、米を盛りあげ、その頂点に橙(だいたい)をのせて、ゆづり葉と松竹梅の小枝を挿し、その脇に勝栗と小さな俵と干柿を添えて(下左側写真)表座敷の床に飾る。

 

この日年越しのお祝いは、子ども達にとつては楽しい。暖い赤ごはんを男の人は桑のお椀でいただき、女は菊や蘭の模様のついた黒塗り中朱色のお椀に入れていただくからです。

元日
 早朝に起床したものが、輪じめで浄めた手桶に、西釣井と東の井戸の二つから若水を汲む。顔を洗う時は明き方を向いてこの若水で洗う。お雑煮は味噌雑煮であり、こんにゃく、焼豆腐、青菜などの入ったものである。早速に例の数多くの神々にお供えするのは勿論である。
 一同はお雑煮祝いをする以前に、大切な行事である風邪をひかないまじないをしなければならない。子供にとってはこっけいで面白かった。食卓の各自の席には四つ折りの白い半紙の上に雑魚二尾と梅干一つが並んでいる。一同が席につき、先づ雑魚二尾をいただく。次に酸っぱい梅を思いきって口にパクリと入れて、種を口から取り出すとき、四つ折りの白紙を開いて受けるが、この時ハアーと息を同時に吐き出して、その息が逃げ出さないように種と一緒に素早くしっかりと紙に包みこむ。これを恵美須様にあげる。
 これが終わって味噌雑煮をいただき、表の座敷で年祝いの宴に入る。
 年祝いの宴というのは、一人ずつ床前に出て、米と橙で飾りつけしたお三方を、明き方向いて捧げ持つ。これでおとしを頂載出来るので子供たちは嬉しい。順番はお父さんからである。ここで初めて雨戸を開ける。早くから雨戸を開けると「さいわいさま」が逃げ出すから開けてはいけないのだ。
 三つ盃でお屠蘇、そしておせち料理をいただき、所謂、おかんしのお祝をする。そのあとは氏神様、有岡山墓地、四坊山墓地へお参りに行ったものである。

 一月二日
 「鍬初(くわぞめ)様」という行事をしていた。佐喜の言葉によると、詳しいことは知らないが、畠に莚を敷き、お三方・お屠蘇・三つ盃を運び出して畠でお祝いをする。鍬で土を掘る真似をしていたが、それは作人の安吾さんや春義さん等がしてくれていた。安吾さんは田んぼのあちこちを廻って、酒かお雑煮かで祝う真似をして歩いていたように思う、と言っている。

 一月四日
 「福わかし」をいただく。神々にお供えしてあった食物を全部さげて洗い、これを元日の雑煮の汁の中に入れて、更に年末からの御飯の残りなどみなこの中に入れて、ぐつぐつと静かに炊くおいしい雑炊である。

 一月七日
 七草粥を炊いて神々に供え、いただく。七草は「せり・なづな・ごぎょう……等」の春の七草に限らず自家の七種類の野菜をつみとってきてつくつた。

 一月十五日
 小豆粥といって、小豆を混ぜたお粥である。お椀に入れていただくお正月のご馳走は、これでおしまいである。
 これらの行事は生産に結びついたもの、病気に結びついたもの、御先祖や氏神というように家や神に心を寄せたものなどあるが、全部の行事が同じ時代に始まったとは考えられないが、いずれをみても家族の安全を願う精いっぱいの気持がにじみ出ていて、手放しで笑う気になれない。
*資料「安岡家の歴史」からの転記ここまで

 正月様を吊るした設備の写真で後ろに見える棚の上に神棚かと思われるのがありました。
 この箱は両開きになっており、開くと大黒様が納められており、木彫、土製などがあります。
 土製は崩れかかっています。この箱は和釘で作られており昭和・大正以前に作られたようです。
  

 この棚に載っていた箱の扉、開いたことなく、箱を掃除したことがなかった。開くと中はクモの糸に覆われ、大きなクモの死骸がありました。守っていたようです。
 そこには大黒様と一緒に硬貨が置かれていました。

 硬貨は和銅通宝、昭和10年の一銭、昭和12年の一銭、時期(判読不可)の一銭でした。
 商売繁盛を願ったのでしょうか。

                                 ● 安岡家住宅<重要文化財>先頭へ


山北の年末から正月の生活