● 宛リ證文と押印
お下の財産を「領知高134石5斗1升9合、物成米40石3斗6升6合」と紹介しました。六公四民から見ると物成(年貢)米が少ないのようにも思います。
これらの米を人を雇い生産(小作方式)していたのか、土地を貸して生産(永小作方式)していたのか不明ですが、米生産に関連した契約書である「宛リ證文」を紹介します。
上の資料の翻刻はこちら(クリック)に示します。
「地 弐反四代壱歩八才」(代は6坪、歩は坪に同じ、才は不明)とあり、2反25坪になります。藩政時代は一反で一石の米を生産と聞いていますので、2反25坪では米2石6升の生産となります。上の資料に記載してある「御物成米弐石八升四合」と略一致します。
もう一つ紹介します。
上の資料の翻刻をこちら(クリック)に示します。
「地 拾六代五歩」(代は6坪、歩は坪に同じ)とあり、101坪になり、上と同様に米3斗3升の生産となります。資料にある「定工物 大米三斗七升也」と略一致します。
宛リ證文は土地借用への支払い契約書と思っていたのですが、前掲の資料では生産者の取分が無くなってしまい、現在の土地借用生産である永小作関係と違います。
当方の知識ではこれ以上これらの資料への深入りはできません。
他の宛リ證文の確認、根居帳(供物帳 土地借用の対価受領帳)との突合など、また知識を貯め、書き直します。
宛リ證文の本筋から外れますが、2点面白く思ったことがあります。そのことを書きます。
●その1 宛り主の識字と押印
多くの宛り主(資料の記述者)は藩政時代の身分制度でいうと「百姓」です。百姓は虐げられて、字も書けないと思っていました。資料のように立派な字を書いています。
代筆ということも考えれますが、少なくとも書かれていることを理解しているのではないでしょか。字への知識を得るための教育はどのように施されたのでしょうか。
内容を理解し、署名の後の押印したのでしょう。署名と押印部分を抜き出したのを次に示します。
書面に姓名の名しか記載できなくても、印鑑により記載内容を証明する行為が一般的に行なわれいたようです。武士などの花押に対応して、農民レベルでは印鑑が使用されたことを示した資料となります。
印に何が刻まれていたのでしょうか。現在の実印からは姓名の姓(苗字)となりますが、「苗字帯刀を許さず」と百姓の印鑑所有がどのような結びつければよいのでしょうか。
●その2 安岡平八(本家)への宛申書と苅谷
上の資料で宛り主が苅谷嘉平太の「作代地宛申書物之事」の宛先が安岡平八で、明和八年(1771年)となっています。明和八年は、お下家の祖覚兵衛正元が今の場所に住み始めた頃です。安岡平八は本家の主であり、本家宛の資料になります。本家が福島に移るときに、預けたのか、以前から何かの理由で引き継いだ資料なのでしょか。
この資料の宛り主は、苅谷嘉平太と姓を記載(下左側写真参照)していますので、郷士以上のクラスの人だったのでしょう。
この資料に名が出てくる人物ではありませんが、刈(クサカンムリ無し)谷と記載された墓石3基が草に埋もれて、安岡家の墓地(四坊山)の南側(下右側写真参照)にあります。没年は刈谷伸伍寛政十年、その妻安永四年、もう一基も安永(年は読めず)です。安岡家で最も古いのが、明和元年安岡平八正久妻ですので、平八正久が亡くなるまで、安永に作られた刈谷家の墓と並んで立っていたのです。墓を並んで立ているので、行き来があった間柄だったのではないでしょうか。
刈谷家が途絶えたことと、この資料「作代地宛申書物之事」との関連は出て来ませんが、狭い土地ですので何か繋がりがあったように思います。
宛り主 苅谷嘉平太 刈谷伸伍篤□の墓石(右側が妻の墓 安岡家と同じ並び)
祖父秀彦の大正2年の日記に
「午後ハ小作人ノ変更シタル分ヲ宛書ヲ入レサス為メ印刷シた宛書ノ残へ姓名を書き入れ」
とか
「永小作権移轉ニツキ承認ヲ求メニ来テアツタカラ印ヲシテヤルコトト定メ母ニ委細ヲ依頼・・。ナンデモ二百五十円ノ永小作権賣價挌ガ其レデ宛口ガ十六位ダト云フカラ余リ利キ合ハ・」
とあり、藩政時代と大正初期で農業の生産構造は大きく変っていないことが分かります。