● 奉願口上覚(下書)
2010年5月29日改訂
お下の2代目廣助は本家から養子に来ています。
廣助がお下の繁栄を築いたと言われています。「郷士生活開始」からを参照。
香我美町史(上巻)によれば、次のような記載があります。
○廣輔は天保六年に藩から褒賞を受けた。
○米価高騰の際の補米として下値売却や飯米融通等を行って窮民を貰っている。
○天保11年山北村・富家村・和食村の小作農民より出された廣助父子表彰方の奉願口上が
あった。
○天保11年郷士仲間連名で昼夜武芸に励み等で廣助表彰方奉願口上も扣もある。
今回の「奉願口上覚」は、安岡廣助、安岡平八(本家)、安岡利弥太(前田)、安岡亀吉(文助(お西)の幼名)の名を並べて、武芸に励んでいることなどが記載(資料翻刻ここをクリック)されています。訂正箇所もあり下書きです。
褒賞の願いは他薦かと思いますが、文章は天保十年に「他支配組抜御足軽 忠次」が書き、手嶋早太様宛になっています。
資料の末尾に「右之趣四所執成御仰付被為下度奉願上候」と記載しています。忠次はどんな人で、安岡家と職掌としてどのような関わりがあったのでしょうか。手嶋早太、忠次は文助日記などにも出てきます。
天保12年に廣助は亡くなっています。
この時期に褒賞の奉願口上が多いのは、何か因縁があるのでしょうか。
文書jの虫食いもなく綺麗です。4枚に区切って以下に示します。
廣助の分
平八の分→
←亀吉・利弥太の分→
最後の部分
*文助日記から*
●改名について
天保十一 安岡亀吉
天保十一年子五月 文兵衛と革名同十四年兵之字御門?ニ附文助と革名
*手嶋早太について(2010年5月29日改訂)
原書の手嶋早太の箇所の「手」は「午」の崩し字とも判断できます。
下記の文助日記にも同じような崩し字で手(午)嶋が出てきます。
日記からこの人物は城下に武家屋敷の持っています。
手嶋家は実在し、山内家と一緒に掛川から移り住んでします。その屋敷が高知市内に
復元されています。奉願書、文助日記出てくる人物はこの手嶋家と考え、手嶋と記載し
ます。
・天保7年の文助日記の記載
同(五月)廿八日柔術御見分被仰出相勤始調業御所望有之大小裁首尾能八ツ時相済同日手嶋早太
殿稽古屋にて猪様御入稽御覧被仰付相勤首尾能相済