● 入湯願指出

  文助日記から嘉助の脱藩(脱国)などについて紹介しました。
 脱藩が何となく家族などにも罪が波及するように思っていましたが、文助日記にそのようなおとがめを受けた記載もなく、坂本龍馬の兄権平も藩職に就いています。次に「土佐山内家宝物資料館実施の第五土曜特別講座−幕末志士の年譜を読む−」の資料から抜粋します。 ・

 * 龍馬の脱藩は文久二年三月

 脱藩は結局自分自身だけが、自分の藩の土地に戻れないだけで、外で暮らせるだけに糧があれば、他国(藩)で自由に暮らせたということでしょうか。

 正式に藩の領地以外に出ることが如何に面倒であったかを示す資料を紹介します。有馬温泉に出掛けるために出した資料です。
 下が安岡恒之進(恒之進 紹介ここクリック)の弟権馬が書いた「指出控」です。
 
    
















 



    * □:判読不可の文字
 概略は次の通りです。
 『安岡恒之進の母(権馬はお上に養子となっていますので「私実母」と記載)が病気で有馬温泉で病気療養に連れて行きたい。途中、三井孝篤医師、西田耕芸医師に寄り治療を受けたい。また、大坂御屋敷も出入りもお願いします』
 これで許可されたのなく、現在手元にあるこれと関連した資料は次の通りです。

番号 月日 表題 作成者 宛先 備考
安政五年 二月 奉願 恒之進 本山□馬 途中の立寄り医者 小松→西田の訂正記入
五年は記入ミスか
医者黒石の診断書き、文助の証拠書きあり
安政六年 二月 奉願 権馬 井上又七 文助の証拠書きあり
安政六年 三月 指出 恒之進 御奉行所 「大坂立寄りなど」追加指示記入あり
奉願 恒之進 御目附役
安政六年 指出控 権馬 御目附役
安政六年 指出控 権馬 御目附役
安政六年 三月 指出 権馬 御目附役 番号3の追加記入無し
安政六年 指出控 権馬 御奉行所
四月十七日 指出 権馬 大坂
御□役所
10 四月十七日 指出 権馬 御目附所
11 四月十七日 指出 権馬 ■■
御□役所

 どの資料まで出したかは不明でもあり、認可されたかは資料が手元に残されていないので不明です。何回かは差し戻しはあり、提出先の追加・変更があったことも推測される資料群です。兄恒之進は藩の用事で江戸へ行ってます。弟権馬は外を見たかったのでしょうか。もしかしたら「権馬、藩の外を見たければ、願い文お前が書けよ」との会話があったかと想像もします。
 番号9の資料(下書きか?)を以下に示しますが、何回も書き直して、先頭に示した指出控と比べて何か強さがない感じがします。


 番号1の資料には医者の診断書と証拠人裏付けが記載されています。これと同じのを恒之進の祖父である廣助も作成(以下の資料)し、有馬療養を請願しています。
 祖父の資料が残していたこと、それを記憶し真似したこと何となく面白さを感じます。
 廣助はこの手で有馬温泉へい行けたのでしょか。

 
 医者の診断を付記するのは、何か現代的でもあります。

 この頁を書きながら四国四十八箇所参りなども認可願いが必要だったのでしょうか。
 そうであれば、xx参りは大変な事業だったのはないでしょうか。

● 安岡家あった文書index

● 安岡家住宅<重要文化財>先頭




        指出  控
一男女三人  女壹人 安岡恒之進母
       男壹人 私
       男壹人 家来甚平
 右者私実母安岡恒之進母茂病症ニ付
 摂州有馬入温日數八廻り御暇被仰付度
 奉願候ニ付右為廻添私共家来壹人附添
 罷越申度奉存候ニ付八廻り御暇被仰付度
 尤出掛讃州三井孝篤方へ立寄療治
 □更度右ニ付立川御通り罷越申度旦大坂
 罷□西田耕芸方へも立寄猶又療治為
 更度猶大坂御屋敷出入御免被仰付度
 暇奉願通御聞届被仰付□月十一日御国許
 相立候□廿五日御当地□□御間右為御
 届如乃之□□□    以上
             安岡権馬
    三月廿二日
   御目附所