● 文助日記の最後と系図

 
 文助は明治初年まで生きていました。日記は次の通り慶応一年、覺之助が出府(入牢)で終っています。
 以下がその日記最後の翻刻した文と文助日記原本です。

同六日日和同七日日和同八日雨曇 今日う田ニて碁打ツ同九日曇 徳弘来合同十日日和同十一日日和同十二日日和同十三日日和午時頃より曇リ夕方雨雷三発同十四日曇同十五日晴同十六日日和同十七日曇晴裏坪江池掘ル号延欬(#?がい)池ト徳右ェ門来草履買はる西川に菜取ニ行同十八日曇少雨五藤十六日嶋村覚之丞方講釈会覚之助行坂本治内来酒呑四月十七日公文欽助女子出生同十八日吹聴ニ別役より申来ル同十九日曇家内次八を連て高智江行同廿日曇リ同廿一日雨覚之助出府五月二日覚之助出府同二日雨同三日曇リ同八月より一文銭五文ニ通用七十文銭ニ成ル米七十文銭ニ五百拾匁位イ蜜柑一ツ付七八文位柿一ツ廿四文位豆腐一丁三十二文塩一升壱匁六分イリジャコ一升本升ニ付七匁玉子一ツ十八文皮ゾヲリ一足壱匁大工賃七銭拾匁機織女八銭三匁日雇男八0(?)四匁御国馬廿四五両カラ廿両十八両二俵負馬拾両より下ハナシ丑壱貫匁十月十二日カチ(#鍛冶)政平妻年四十四坊閑次年廿五掛ケ落此日王子相撲有政平留守の間西北江抜る当年安喜郡ハ米壱石ニ付七十文銭五百四五匁位イ当年竹村節之進(#竹村東野 嘉助の先生)騎馬より御留守居組ニ被召出文武館文之導役ニ成ル此人元香我美郡野市村百姓瓦屋久蔵ト申者之子学問好初太夫桐間氏江仕追々出精昇進ニ而騎馬ニ成又御留守居組ニ成ル九月六日本家姉(#平八正秀妻)病死同十月廿四日中陰法事平八七年忌一所ニ弔安喜秦泉寺祖母来ル七十四歳達者同十一月七日帰ル十一月十一日薄曇河田新蔵来ル唐炭アツラエル湯ニ入髪結弥平ヲ小畠江講銀取ニ遣る同十二日日和


                           ↑ここの
同六日から上に記載。以降最後の3頁。

                                                       ↑↑
                                                  覺之助出府と2回続く


 筆で書き始める時、墨を付けるので字が濃くなります。日付が濃い箇所を上に赤字で記載しています。また、後から書き出したと思われる箇所を青字で記載しています。文助日記は毎日書いたのでなく、貯めて書いていることが分ります。
 覺之助出府を2回記載(前述黒太斜字)されています。覺之助は親類預りになった後に入牢していますので、親類預りから、実際に入牢したずれなのでしょうか。その親類預りで自由があり覺之助は講釈会に行って(前述緑斜字)ます。約半年後に日記を3回ほど付けています。その中に前述黒太斜字(下線付き)で示した箇所に文助の姉、覺之助の養母が亡くなったことが記載されています。9月に亡くなっていますが、その記述は思い出したように10月であり、ショックは大きかったのでしょう。
 
 文助は日記以外にも、系図関連で先祖書と先祖圖書(安岡の家系図でも紹介)を残しています。この系図が面白いのは随時書き足されていることです。以下が文助の箇所です。

 

右端に「明治三年二月文須ト革」とあります。  
 文助から文須に明治3年に改名したのを追記しています。墓標など文輔となっていますので、四坊山に文助(この字で続けます)の妻の墓があります。この墓には「文輔正理妻」と刻まれています。妻は慶応4年に死亡し、明治3年以降に墓石が建立されたことになります。
 そして、覺之助と嘉助が記載された頁です。

  
 覺之助には生年月日、本家安岡平八正秀の養子となり相続したこと以外に細字で次のことが記載されています。
 右側:慶応四戊辰八月廿五日奥州会津郡於西越後口戦死行年三拾四歳
 左側:慶応四戊辰正月出陣同二月□東征代東・・出陣・・甲州通ニ相成・・同五月於下野・・戦死・・御感状・・格式御馬廻・・と戊辰戦争で辿った道及びその後の状況が詳しく記載されています。
 嘉助が脱藩した時の日記は、文助日記(一部)で紹介しました通り、脱藩のことで終り、捕縛され、処刑されたことが記載されていません。ここには、「大和擧義兵敗軍而□生捕於京師破討□由委細不■■」とあります。解読不可の箇所がありますが委細不明となっています。覺之助については詳細に書かいているので、父としての無念さを感じる記述です。

 文助は、お房だけになったお下(文助には本家)の行く末を心配してか、覺之助の次男乕次郎(寅兵衛)を養子に慶応3年に入れます。乕次郎(寅兵衛)で七歳でした。

  
 
恒之進の弟である安岡覺馬の養子になっていますが、覺馬はこの時既に死亡しています。家を引き継ぐ為に、養子に来た訳です。この記録は土佐山内家宝物館で保存されている郷士年譜にも記載されています。その記録に、乕次郎の父覺之助が牢に入れられていためか、最後に「但覺馬儀同姓安岡覺之助二男也」(乕次郎でなく覺馬)と記載されています。
 上の資料に覺之助の四男又男が記載されています。「明治五申年又雄ト革名」とあり、これが最後の記載です。
 又雄はお西(文助が祖)の養子に入ります。
 文助はお西家だけの系図も残しています。


 巻紙になっています。「奉願祭遠都御祖御霊代・・毛白須 安岡文輔拜」で神主の祝詞のような言葉で始まり、安岡家祖からの名で、お西家に流れる名が記載されています。
 最後の方はお西家の者として死んだ人の名が死んだ順に、死んだ年月日のみを記載し並んでいます。ここでは文助の妻も名前「密」で書かれています。



 覺之助は養子に行ってますのでここには記載されていません。
 どこまで文助が書いたのでしょうか。
 「文輔 明治十年一月十九日没六十四」とありますが、墓石には明治十四年と刻まれています。このずれは、墓石建立が生活困窮で遅れたためとも考えれています。
 さらに、次の資料があります。ここには文助は「明治九年十二月十日卒」となっています。

 
 上の右側が資料の末尾にあります。紙は山北村の用紙であり、片岡程八郎は明治30年頃山北村役場関連の人であることが、又彦の日記から判明しています。又彦が先祖書の確認の為か、戸籍から取り寄せた資料のように思われます。名前が改名した文輔でなく文助であることは、改名自体が個人的なもので戸籍まで届けなかったのでしょうか。
 戸籍への提出が遅れ、戸籍の死亡年月日が遅くなるのは考えられますが、戸籍の方が早いのは何故でしょうか。
 もしかして、お西の系図に、自分の死期を想定し記入したが、それより前に死んでしまった。
 文助さんは最後も波瀾多き人生を送ったようです。

                                     
                          ● 安岡家あった文書index

                          ● 安岡家住宅<重要文化財>先頭