● 正徳 獄中から正風へ                 2015年7月追加記入

1.獄中正徳から正風への手紙

 流離譚の後半部分で、安岡権馬正徳(安岡恒之進正代の弟  お上へ養子に行く)が西南戦争も終わった明治11年に大石円(弥太郎)と共に逮捕され松山に送られています。そのことが、大石円の獄中記を引用し紹介されています。この獄中記、県立図書館の大石家文書にありませんでした。流離譚に記載された獄中記によると、正風(覺之助正義の息子)が獄中の正徳に会いに行ってます。
 その時、正徳39歳、正風19歳。
 
 正徳が松山の牢に拘らえられた時に、正風に宛ての(渡した)手紙を紹介します。

   
 
 正風は本家からお下に養子となっています。お西(文輔)が高知に出た後、正徳はお上の養子ですが、正風の身近にいた唯一叔父です。上の文書は正風の生活態度をたしなめる手紙かと思っていたのですが、獄中記と合わせて読むと、松山の獄中から正徳が正風に渡した手紙と判断しました。達筆で読みきれていませんが、次にその解読結果を記載します。横書きですが、行替えは合わしています。
 
    一筆啓上いたし候先以□□ニ相来候處其
    御地祖母様初一同無事ニ消光被為来し
    御事似□之通に御座候□□□義海
    □無□去廿二日当年者□□存之双□
    痛も無之□堅固ニ罷有候間少も□
    争遣被成間敷 祖母様江も右之段宜
    御傳聲ヲ頼候何分貴□越申迄
    も無之候得共兼定し通學問勉強
    厚可被為に御座候且て当地之□物
    申通べく候得共先不取散当□
    元御左右申上度早々如此御座候
               致國
            安岡正徳
      安岡正風様

 
 不明点(□箇所)が多すぎますが、大石の獄中日記にあるように正風と正徳が対面している可能性もあり、「安岡権馬が獄中に記した和歌 香我美町史参照」からも明治11年2月14日あるいは17日に対面している可能性があります。そのとき正徳から正風に渡した手紙と思います。
 手紙にある「御祖母様」は正徳の祖母=廣助の嫁は既に亡くなっていますので、正風の養祖母である源右衛門妻、正徳の実母ではないでしょか。
 この手紙も町史にあるように頭髪の筆ためか、紙も茶色であまりよくなく墨も滲んでいます。

 * 香我美町史 下巻 頁70~72に安岡権馬の獄中での和歌が紹介されています。
    前述の対面に関連した箇所を引用します。
     温泉に浴して十七日の朝は、故郷に帰るとなも、正
     風、清平いひければ、その朝詠める
          湯の原にま袖しぼりて今朝はしも
               故郷むけてたび立つらむか
         松山を三坂の坂の坂中に
               ふり返しみつゝ袖やしぼらむ


2.正風のその後

 流離譚に記載されていますが、正風の品行は良くないというか、それまで安岡家にはなかった自由に人生を過ごした人でした。養子になった頃は、勉学に励んでいたようで、名前が記入された本が残されています。実父覺之助の偉大さ負けたのか、自由な生き方に変わっていきます。正風が正徳に会いに行ったのは、何故でしょうか。お上とお下で身近にいて、巡査が連行する状況を見て気にしていたのでしょうか。學問・勉強に励めとの正徳の手紙に従わず、生き方は変えず、借金を重ねていきます。

 正風はお下に養子に来て、乕次郎から寅兵衛に名前を改名しています。名前から自分を強くを変えようとしたが出来なったのか、。家付き嫁の気が強さに負けたのか、色々推測されます。
 明治後半にどのような経緯で台湾へ行ったのか不明ですが、何故か自分が捨てた家へ年賀状など書き送っています。
       
 この年賀状は明治39年自分の妻であった房の子秀彦宛です。年齢は50歳頃です。明治40年、41年も年賀状がきています。
 最後は福島の本家で亡くなります。墓も福島にあり、墓標には大正七年十二月廿一日客死とあります。正風はお下にも戻れず、本家では客であり、最後は寂しさを感じます。ですけど、生き方を知りたくなる人物です。


3..正徳の死

 正徳は明治11年に死亡しています。
 その墓は富家山(安岡家の近くの(有)西内石灰工業所(香南市野市町本村)の北側の山)にお上の墓地にあります。正面は正徳(権馬でなく諱)を刻み、他三面にはその経歴などが刻まれています。
 
 刻まれている経歴は次の通りです。

安岡氏土佐之者性也其居香美郡山北邑者最称奮族不詳其世系所由輓近出善士三人為一日覚之助明治元年従王師之征東、北大効力於行間遂死会津城下其弟日嘉助墳覇政之専横挙義於大和死之両人者其事較著史正徳稱簡録覚之助之従弟也為人間黙能以静鎮物雖忽遽之際亦処之裕如也其接人也慟々殊無払戻之色具甚好義男於為人郷人子弟為其所奨励者盖不勘実郷人至今思之毎慾挙一事未嘗不歎君之不在地鳴呼君一布衣耳x思意以及其人而能使人思如此豈有忠信孚乎人而致然x君生年不甚読書然能通大義夙慨皇至之式微窃抱有為之志広交四方之名士勤 王之士雲集闕下之日君周旋於其問与有力為及太政之復古也百弊湔滌若莫有復可霊之事然天歩方艱似有隠然胚胎不測之渦之勢君憂之不惜於是重趼之西又之東所至必就豪後謀一所以済時艱之策如此者連年矣而事興時違不得一有所施空斎志而帰家居忽々不楽問語及時事則旧然久之聞者蓋動心焉明治十年西南事起当是時也物情泡々蜚語如蝗以事渉於疑似繋獄者甚多矣、明年春正月君亦被捷拘於伊与松山之法衛同捷者二人目大石某日久萬甚皆君之墓逆友也淹獄数月推鞠帰於無実得釈x君固善病遂罹然療族人故虐憂甚成難保為抵松山懇請於名得暫出獄而加養然病気転劇既不能支吾九月十六日終松山客舎間者悼惜莫不禰一郷之不幸君以天保十年生享年四十初君之罹病也其表兄山本某即起松山拮据備至是護表師南是亍先塋君素嗜国風在獄所詠十数首幸得伝干家志気益然溢手外応足以観其所養之一端矣噫士之励志行己窮而泯没者何限況遺愛若君者固可以蔑限拾地下矣然而竟無述之則後之子孫将何以有所考徳於其先郷之後輩将何以有所勧於為善余固楽道之而君之郷友其子弟?余遊者又以請於是余不弁以撲乃略叙次 其所問使x諸墓以告予後人去明治十三年冬十二月平安中沼熙醇述友人等建右暁峰紀礼書


(注・再編集 x:パソコンに該当漢字無しで原本は漢字が記載されている)

 

安岡氏は土佐の者也、

其の居香美郡山北邑は最も旧族を称すれども、

其の世系を詳らかにせず、

由る所輓近(バンキン)善士三人を生(イダ)す、

一を覺之助と曰う、

明治元年王師の征東に従ひ、

大いに力を行間に効(イタ)し、

遂に會津城下に死す、

其の弟を嘉助と曰う、

覇政の専横を憤り、

義を大和に擧げて之に死す。

両人は其の事史に較著(カクチョ 題著の意)たり、

氏の傳られること之多い、

而して世で君に称すること不聞、

君は諱を正徳の簡録を称す、

覺之助の従弟也、

人と為り間黙、

能く静を以て事を鎮物、

忽遽(コツキョ だしぬけで急なさま)の際と雖も、

亦之に処するに裕如たり、

其の人に接するや慟々(ドウドウ)

殊に払戻(フツレイ 逆うの意)の色なし、

甚しく義を好み、

人と為りに於て郷人子弟其の奨励する所と為るは、

(ケダ)し郷人を害するを勘(カンガ)へざればなり、

(*右行 郷民のためになるようにとばかり考えていた)

今に至りて之を思ひ、

一事を擧げんと慾する毎に、

未だ?ん君の地に在らざるを歎かずんばあらず、

嗚呼、

君は一布衣耳フイノミニ)思意をつくして以て其の人に及ぼし、

而して能く人をして此の如く思はしむ、

(アニ)忠信の孚(マコト 心の中に大切にだきしめている気持)有らざらんや、

君生年(生前)甚しくは読書せず、

然れども能く大義に通じ、

(ツト)に皇室の式微を慨(ナゲ 胸いっぱいになって)き、

(ヒソ)かに有為(才能がある)の志を抱きて四方の名士と交り、

勤王の士の士闕下(ケッカ 宮廷の下=京都)に雲集するの日、

君其の間に周旋し、

(クモ)に力を太政の復古に為(ツク)すあり、

百弊湔滌(センジョウ 積もった旧弊を一挙に洗い清める)して、

(マタ)(アキラカ)かにすべき事有るなきが若(ゴトシ)し、

然れども天歩(天のまわり合わせ)まさに艱にして、

陰然不測の渇勢を胚胎することあるに以たり、

君これを憂へ、

重趼(ジュウケン 趼 足にできるたこ)を惜しまず、

西へ之()き又東へ之き、

至る所必ず豪に就き、

後一所に課る、

(カク)の如き者連年なり、

以て時艱を済(スク)ふ策、

(シコウ)して事(コト)時と違ひ一を得ず、

施す所空しく、

齎志(サイシ 志をあの世まで持ちつづけること)して帰る、

家居忽々(コツコツ 気抜けする様・失意の状)とし楽しまず、

間語時事に及べば即ち旧然(元通りすっかり元気回復し・)之を久しうし

聞く者蓋(ミダ)し心を動かす、

明治十年西南の事起る、

是時に当りでや、

物情淘々(チョウチョウ 騒ぐ、おだやかならず)として蜚語(ヒゴ)(浮説乱れ飛ぶ)の如く、

以て事疑似(コトギ 確な証拠があつてのことではなく、単に疑わしいということだけで)に捗(アタリ)り、

繋獄せらるる者多し、

明年春正月君も亦捕へられ、

伊予松山の法衛(ホウガ)に拘(ツナ)がる、

同じく捕えらる者二人、

曰く大石某、

曰く久馬甚、

皆君の莫逆の友也、

淹獄(エンゴク)獄に留まること)数か間、

推鞠(スイギク)推聞と同意、罪科の拘(コウ)り間されて無実に帰し釈を得たり、

(ココ)に君固(モト)より病を善くし(病気になり易い体のため)

遂に罹る、

無れども療挨の人改(コトサラ)に虐憂もすること甚しく、

成を得し難し、

松山(松山の民家あるいは旅舎の意か)に抵(イタ)らんがため懇請して暫く出獄するを得て加養せり、

無れども病気轉ずること劇(ハゲ)しく、

既に支ふること能はず、

九月十六日松山の客舎に終る、

聞く者悼惜(トウシャク)し、

一郷の不幸為さざるはんし、

君天保十年を以て生れるや、

その表兄山本某即ち松山に赴(オモム)き、

拮据(キツキョ)に備へ至る、

是より護られ南に帰る

葬る先塋(センエイ)先祖の墓地)に定む、

君素り国門(和歌)を嗜み、

獄に在りて詠ずる所の十数首、

幸ひに家に伝ふることを得たり、

志氣蓋然として手外に溢れ、

まさに以て其の養る所の一端を観るに足るべし、

(アア)

士の志を励まし、

行ひに已(スデ)に窮して泯没(ビンボツ 滅び去る)する者、

何ぞ況やに限らんや、

遺愛の若君

固可以蔑限於地下矣(ナラン)

然り而(シコ)して竟(ツイ)に之を述ぶるなくんば、

即ち、

後の子孫まさに何を以てか、

其の先郷の徳を考ふる所有らん、

後輩まさに何を以てか善を為すを勧むる所有らん、

余固(モト)より之を道()はんことを楽しみです、

而して君の御友其る矛余に従ひて遊る者、

又以て請り、

是に於て余不弁なれど、

(ボクロウ)を以て乃(スナワチ)ち略叙するの次(ツイデ)

其の聞く所をして、

(コレ)を墓に鑱(ミノ うがひ)しめ、

以て予の後人に告げん

明治十三年冬十二月    平安中沼照醇述

             友人筆建石

             暁崎記礼書

                        
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