・息子辻松の死

 覚兵衛正元の長女は、本家の平四郎正利の妻になり、四坊山に墓があり『弘化二年 享年65歳』とあります。誕生は1781年天明一年頃になります。

 天明一年は覚兵衛が四坊に住み出し10年目で30歳の時です。結婚もその1、2年前とすれば、覚兵衛の四坊に移り住み10年間(明和八(1771)年〜)で生活のインフラを作り上げ嫁を迎えたのだろうか。覚兵衛正元が亡くなった時には、『高勢百万石、銭約百貫有り』とあります。覚兵衛は郷士になっていませんが、新田を開発、土地の買入などで増やしたのでしょうか。
 覚兵衛正元は別ページ(安岡家の歴史:先頭ページ)に示したように2男4女の子がありましたが、2男2女は早世しました。末っ子辻松以外は、墓がありません。


    

 辻松の墓の写真を上に示します。文化二(1805)年享年7歳、父覚兵衛正元54歳の時に亡くなっています。誕生が覚兵衛47歳で、跡取りが出来たことを喜んだことでしょう。他の早世の兄、姉の墓が無いのは、幼かったかも知れませんが、辻松の死は覚兵衛の跡取りを失った無念さもあったのではないでしょうか。
 その2年後、覚兵衛は56歳で亡くなっています。
 長女は本家へ嫁ぎ、三女に本家から養子『広助』に来て、お下家は続きます。
 覺兵衛に関する文書が出て来ました。そこに書かれて覺兵衛の意外な人生を何故覺兵衛に諱があるのかに紹介します。

  <郷士生活の開始に続く

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お下家の開始 本家とお下家の場所 住み始めた頃の家の様子 息子辻松の死
本家とお下家の場所

 下に『香我美町史 上巻付図 ホノギ図(山北地区)』です。黒い太線が山北川です。
 太い白線が幹線です。幹線の西側の『四坊口』東『四坊ノ丸』がお下家があります。
 更に東に行った『岡ノ芝』に本家がありました。
 その先で変則十字路になっています。この交差点が現状より北側に描かれています。



  上図ので囲った箇所を下の航空写真(1980年撮影)で示すと次の通りです。



 薄緑で囲った箇所が安岡家(お下 上図四坊ノ丸)の場所で、で囲った場所が岡ノ芝の本家があった場所で、で囲った箇所が四坊山で、安岡家(お下家など)の墓地(下の写真)です。





・住み始めた頃の家の様子

 ・寝松
 覚兵衛が四坊ノ丸に住み始める前に、そこには松がありました。その松は宝暦四年1755年生まれで樹齢210年で終わりましたので、住み始めた頃、樹齢16年です。今の同じ位置にある松が現在(2007・5)で15年です。
 松の木あった頃にその松を紹介しています。そこに記載していますが、この松は横に伸びて寝松と呼ばれていました。松は上に伸びますので、寝た形に育ったのは、後(北側)に更に大きな木があり、寝松は光りを求めて横に伸びたのでは想像しています。
 この寝松、その背後にあったと思われる大きな木は、覚兵衛の四坊での生活開始を見続けていたのでしょう。

 ・どのような住宅に住んていたか
 覚兵衛はどんな家で住み始めたのでしょうか。
 明治18年頃に作成された家の絵図を参考にして作成したのが下図です。 絵図はリサイズしているので少し見難くなっています。
 この下に示した図は、従来の全体絵図から主屋部分のみ残し他は消去し、周囲が高い部分を斜面(図では茶色の部分)としました。
 この時代の覚兵衛一家の生活には土間、そして7部屋の主屋は大きすぎます。そして、家の前面が広すぎます。現在門は下図より北側(家側)にあり前庭がありますが、下の図では南側に寄せています。その当時の道は家の前を通り、その付近に門があったとして南側に配置しました。
 現在の主屋と別位置にあったのではないでしょうか。これに関してまた後に述べます。
 
 東側に木の印が多いです。日が長い西側を作業場所として住み始めた頃から使い、東側は余り使われなかったのではないでしょうか。寝松が残ったのもそのような理由があったのではと推測します。

 ふるさとの文化遺産保存推進対策事業調査『安岡寿雄家住宅調査報告書』(平成7年3月)に以下の記載があります。
 『系図書で覚兵衛正元のところをみると(略)「明和八年辛卯五月四日四方(ママ)池ノ上エ移住」とある。お下家の祖覚兵衛正元が最初に住んだのは現存の主屋の場所だと思われるが、建築部材の古さや手法から見てもこの当時のものとは思われない。』
 現存の主屋は建築学的に明和八年(1771年)に建てられていないということは、別に住居があり建て直したと考えれます。建て直しは広助が養子に来た(文化二年1805年頃)ということになるのでしょうか。そうだと、覚兵衛正元はこの家に長く住んでいないことになります。
 主屋の建築時期に関して、家の全面修復時の解体で新たな情報が得られることを期待します。