これまでに建物に残された墨書、例えば、「番屋と本門」で建立時期が書かれたのを紹介しました。次にその墨書を再掲します。そこにむだ書きとして、悪戯書きも紹介しましたが、これらと違い下の墨書は何かの意図を持った「文字」と思われます。
 番屋建立記載墨書

本門建立記載墨書

 こららの「文字」は復元工事が終り、隠され、また永い闇の世界、通常の資料に書かれた文字とは異なる場所に戻りました。



  解体しないと見られることの無い箇所に書かれた文字、解体しても取り壊してしまうと見られることもない文字、記録にしては余りにも弱い文字ではないでしょうか。

 番屋の馬屋部分は「20110402修復作業」で紹介していますが、和合掌でそこにも、次の徳と福の墨書があります。
徳の文字  福の文字

 徳の文字は和合掌の組合せの内側、福の文字は和合掌の外側、これらの文字も和合掌として組立てられ、屋根の下に入り隠れてしまいます。下が組立てられた和合掌です。

組立てられた和合掌
 墨書ではないですが、屋根の上に置かれた鬼瓦には「正」の文字が刻まれています。

 鬼瓦 正の文字
 墨書は大工が書いたのか、施主である廣助が書かせたのか、書いたのか不明ですが、表に見える鬼瓦の文字は施主の意図があったのでしょう。どのような意図があったのかは「徳」、「福」、「正」の三文字を合わせて考えた方が解けるのではないでしょうか。

 施主の廣助の名も番屋に墨書として残されていました。
 安岡廣助正雄 の墨書
 この墨書は四畳半の入口の鴨居に書かれています。この資材も再利用されれば見えなくなりますが、朽ちて再利用不可のため今でも見ることが出来ます。施主の名を大工が勝手に記載することはないと思いますので、廣助が自分で書いたのではないでしょうか。
 このページで紹介した一連の墨書は廣助が意図を持って書かせたのではないかと考えると、番屋に掛けた廣助の意気込みが大きかったと推測されます。廣助が書いたと思われる建物に残された墨書がもう一つ見付かっています。「安岡家住宅の座敷部」「床の間と書院障子」で紹介しました障子框の墨書です。また「子年菊日記 客間障子工事記録」にも関連記事があります。
 下の写真の右側は書院障子の框上側に書かれた墨書、左側は下側に書かれ消えた墨書です。
●左側の墨書内容
文政十一年戊子春三月吉日造之 工匠山北邑重八 行年三十歳 塗師佐古村三右衛門■■■ 高拾枚 安岡廣助正雄
●右側7の消えた墨書
文政拾■■・・・・・
   
 こんな推測をしました。
 客間に漆を使用することが許されその工事を、文政11年に施主 廣助が行います。廣助にとって自分のことを残す大きな工事と思ったのでしょう。その記録(思い)を残すため、框に墨書を残した。当初は框の下側に記載したが、永い年月で消えることを障子を作った大工 重八に指摘され上側に書き直した。そして2年後に文政13年に番屋建立となりあれほどの墨書を番屋に残したのではないでしょうか。
 現在、客間建立時期が文政11年(番屋建立2年前)以前となっていますが、廣助が建てたのであれば、番屋に数多くの墨書を残すほど意気込みはないかと思います。客間は初代の覚兵衛正元の時代で建立であれば、その意気込みをうかがい知る事ができます。

 建物に書かれた文字は、単に記録としてでなく、書いた人の意図を読み解くことを考えて、文書の範疇に入れて紹介しました。

                                     ● 安岡家あった文書index

                                     ● 安岡家住宅<重要文化財>先頭


本門の墨書は↑
冠木と前柱の組合せの中へ
番屋の墨書は↑出桁の継いだ中へ

● 建物に残された墨書

2012年4月19日新規