主屋の試掘調査(その2)      新規 2015年7月4日

 主屋の試掘調査は2015年6月に終了しました。検出された遺構を絵図に追記すると次のようになります。
    

 これを発掘前の地面に遺構位置をマッピングすると次のようになります。
 下の写真は上図の右側から見ています。黄色楕円形が壷状遺構、右奥の星がカマドの跡ヵになります。
 
            遺構位置写真
 
これらは試掘の数ヶ月前ですが、壷状遺構以外このような遺構が下にあるとは考えられません。埋蔵物発掘者の勘が、これらの探し当てたのでしょうか。
 絵図の上(北)側で発見された居室部の建立の文化五年以前に作られたと推測される生活臭がする遺構があり、民家ならでは遺構と思います。建物は復原され、これらの生活臭は記録に残されるが見ることは出来なくなります。遺跡保存はある時点を切り出すしかないので仕方がないでしょう。
 上図の新たな発見、既に紹介済みで新たな推測などを含め次に示します。

 
 
1.蓋付壷→胞衣壷(えなつぼ)
 
前に紹介した蓋付壷は不明と紹介しました。胞壷(えなつぼ:胎盤などを収め子供の健やかな成長を祈る)と推定しています。その壷ですが、次の写真のカゴを被せた場所からでてきました。
 
 カゴの場所は前の遺構位置写真の水色
です。
 
 最上のは卍が書かれた壷が出て来た場所です。下の2箇所から出て来たのを胞衣壷と推測しています。4個(下写真右側)と3個(下写真左側)とまとまっていました。


 埋もれていた場所は座敷部の床の間の下です。座敷部建立は文化七年です。それ以前の誕生した人のものになりますので、この七つの胞衣壷は初代の覺兵衛の子供六人と、二代目廣助の長女(文化三年誕生)と推定しています。
 廣助が胞衣壷の儀式を継いでいればまだどこかに埋っているかも知れません。また、胎盤が残っていれば、DNA検査をすれば、現存する安岡一族のと一致するかも知れません。
 これらの一つに蓋に墨書があるのがありました。
 
 上の右側で「権馬」とあります。初代覺兵衛に権馬との名の子供があったとの記録はありません。
 覺兵衛の男子で名が残っているは辻松で死亡は文化二年です。長男は早世したとあるのみで、その名、生まれ死亡年月日の記録はありません。
 「覺兵衛に何故諱があるのか」に掲載した覺兵衛の自伝と思われるのに次の記載があります。
 同(享和三)年冬革名奉願権次郎与相卒
 (享和三年冬同年死亡した(子の)名を権次郎と改めること願いがかなった)
 この享和三年に名を権次郎と改め亡くなったのは覺兵衛の長男で、壷に書かれた権馬はこの長男ではないでしょうか。


2.溝

 溝の場所は前の遺構位置写真の青色です。
 この溝は絵図にある中庭からの排水路と思われます。この中庭は弘化四年に絵図で壷状遺構の上にある六畳を作った時の改造で出来たと推定されます。この溝は次の通りです。
 
 
上の写真では写っていませんが、白い化粧クリームの壷が一緒に出てきました。瓦で側溝を作るなど何か素人細工に見えます。写真中央の白い半円の石は回し臼の一面の半欠けです。。
 回し臼のもう一面ですが、もしかしてこれかも知れません。
 
 上の写真は塀重門から客間の庭に入る踏み石で、丸いのがその片割れか。
 工事でいま調べられないので、工事が終わったら確認出来ればと思ってます。


3.水溜
 水溜の場所は前の遺構位置写真の青色です。
 形状等から水溜と呼称していますが、文化五年に居室部が建立されると建物下になりますので、それ以前に何かの用途で作られたのでしょう。
 
 直径1メートル、深さ60センチあり、壁は粘土で叩かれています。
 形状から樽を置き水を溜めたのではと推測しています。本「日本の農民家屋」に江戸時代の農法が引用されています。そこに「農家に水は大切だから、家に上がるときの足などを洗った水は捨てないで水溜にるため、樽を入口に置くこと。生活排水なども捨てないで、樽を埋めた穴などに蓄えなさい」と、ありました。その水溜ではないかと推定しました。
 その後、住宅地内に雪隠と呼ばれる別棟の排水溜め、所謂肥溜めが作られ、これは不要となったのでしょう。


4.鍛冶場
 鍛冶場の場所は前の遺構位置写真の赤色
です。
 焼けた土と附近から鉄くず(磁石で採集)が出てきたことから鍛冶場と推測しています。
 
 鍛冶場が上下に二つ並んでいて、右側から火を起こしたと推定しています。この鍛冶場で何を作ったのでしょうか。余り大きくないので農機具ではないと思います。
 鍛冶(かぢ)に関連して時期が明確ではないのですが、以下の文書があります。
 
 池トイ直シの費用計算です。上が金額で下がその項目になります。金額x匁x分とありますので明治以前と思われるます。最後の項に六匁六分五厘の脇に「カスガイかぢ」とあります。
 カスガイをかぢ(鍛冶)屋に頼みその支払いでしょう。カスガイ、釘などは注文生産で鍛冶屋に依頼したか、小物は自分で作ったのではないでしょうか。この鍛冶場、現場でかぢ屋に作業させたか、自分で製造したのでしょう。居室部、座敷部で使われていた金具は少ないですが、蔵の窓などには金具が見られます。

 
5.大きな穴
 大きな穴の場所は前の遺構位置写真の緑色
です。
 この場所は絵図では六畳、文化五年建立の居室部(主屋修理 復原設計参照)でも茶の間と縁の境目附近になります。この穴は試掘で発見されたのではなく、床を解体すると姿を現しました。

 
畳一畳の広さ30センチの深さがあります。文化五年以前に作った穴であれば居室部建立時に埋めると思います。その後、茶の間下、畳、畳板を取り除き掘り、使うときも同様な手間が掛かる場所に穴を掘るだろうかと疑問に思います。
 こんなことを想像しました。
 この家は昭和20年6月に兵隊の宿舎と使われ、米蔵の床下に弾薬を隠したとの記録があります。もしかするとこの頃に軍隊が何かするために掘った穴と考えることも出来ます。
 

6.土間のクド・カマド
 絵図に記載されているクドの場所は前の遺構位置写真の朱色
です。この附近を試掘しましたが、クドの跡はありませんでした。これまで絵図と建物の食い違いはなかったので不思議でした。
 少し広げて試掘すると焼けた土が出て来ました。
 

 この焼けた土は整地層の上の方から出て来ました。それで明治になって作ったカマドで、その構築の際、前のクドは崩したと考えられます。明治になってカマドを作ったのは養蚕を始め、製糸で繭煮鍋を置いたと推測しています。
 カマドは釜屋にもありましたが、食事用と繭用と分けたとのと思います。
 茶の間に囲炉裏の痕跡がなかったので、土間にクドか、カマドがなければ梁があれほど煤だらけにならないでしょう。
 


7.円柱の小さな穴
 円柱の小さな穴の場所は前の遺構位置写真の黄緑色です。
 穴の直径3センチ程で深さは30センチとのことです。
 
 小石が蓋のように乗せてありました。この蓋が動くので取り除くと軽い土が詰まった円柱の漆塗りの物が出てきたとのことです。これは文化七年建立の座敷部の整地面より一段下の面から出て来ています。
 円柱を埋め後から叩いたので円柱の周囲が硬くなっています。
 全く目的は不明ですが、初代覺兵衛がここに家を建てたときの遺構と思われます。

  遺構漆の椀についてはこちら参照

                     ● 主屋修理保存工事 先頭
                                  
                     ● 修理保存工事状況 先頭

                     ● 安岡家住宅<重要文化財>先頭