● 主屋の試掘調査 改訂 2015年7月4日
主屋は全解体し更地状態になり、主屋復原のため情報を得ることを目的として、試掘確認調査が行われました。調査は、文化財建造物保存協会の安岡住宅修理保存設計監理事務所と協議しながら、香南市教育委員会(香南市文化財センター)が主体で実施しました。試掘に関連した数値データなどは、資料「平成26年度香南市香我美町山北 重要文化財安岡家住宅「主屋」 試掘確認調査概要報告書(2014年8月31日 香南市教育委員会・香南市文化財センター)などを参照しています。
1.試掘調調査
当初は絵図にあるクド位置の確認及び、釜屋から続く整地帯の確認でした。
解体資材の痕跡確認などで表に出ていない礎石抜取穴(礎石痕跡)の確認しなどを2014年6月から始めました。
その後壷状遺構の発掘など、面白い結果、疑問が出て来ました。
香南市は埋蔵物が多いためか、試掘に慣れた方々が居り、香南市文化センターの指導により手際よく作業が行われました。
2014年7月3日撮影
中央が南北の土盛を調査溝で、トレンチ3(TR3)と呼ばれています。
釜屋からの連続性を意図し南北同位置に掘られています。当初の土間のクド位置は確認できませんでした、盛土の状況、漆塗りの椀、壷状遺構、埋められた蓋付磁器などが検出されました。
全体状況を以下に示します。下の写真では蓋物陶器埋納と一箇所のみ記載していますが、その後多くの磁器、土器などが検出されています。
2014年7月20日 南側から撮影
2.地形(四坊池ノ上)と整地
釜屋の試掘で中央から南側にかけて盛土が確認されました。その延長で主屋でも盛土があり、釜屋と同じように南側ほど厚いことが確認された。その厚さは北側(居室部)0.9m〜1.0mから南側(座敷部)1.0m〜1.1mありました。
釜屋で文政八年建立の墨書が出てきましたが、その建物の整地面より下に整地面があり、文政8年以前に建物があったことが想定されています。座敷部も礎石位置(座敷部床下)より低い位置から整地面が出てきました。
これは座敷部の建立時期を示す墨書(文化七年)以前に、ここに建物、生活があったことを示しています。主屋居室部の建立を示す墨書(文化五年)ですので、それ以前は現在の座敷部の位置に初代覚兵衛正元は居室部を作り生活し、新居に住むことなく文化四年に死去しました。
座敷部で1メートルの盛土をしたとあります。現在も西側は絵図通り2メートル近い高さ、東側は1メートル高い藪地となっています。現在、共同水路と定められた青線が北側から入り、西と東に分かれ、前の田に続いています。北側に家があった頃も、そのような水路があったのでしょう。
安岡系圖書には明和八年に覺兵衛正元が明和八年に「四坊池ノ上ニ別住」とあります。この四坊池ノ上はどの様な地形だったのでしょうか。青線の規定をいつ頃からの水が流れから決めたか不明ですが、青線に沿って石積があることから古い時期からそのような水の流れがあったと思います。地形的に窪地で水の便は良かったでしょうが、周囲の水路の整備、整地は大変な事業だったと想像します。
2013年10月撮影
上の写真は西の蔵(米蔵)解体後、北側の石積み(2017年7月別ページに追記)を撮影しています。石積みの下に溝があり、写真右側が釜屋の位置になり、ここで石積が切れています。この北側は絵図には「竹垣」と記載していますから、境界はあったのでしょう。水路を考えて石積をしなかったのでしょうか。
また、この石積は石が不揃いで意識して集めた石でなく、ついで、例えば整地で出て来た石も使った様に思います。この不揃いの石の石積、前の田(下写真 街道の右下)など似た石積があります。そこまでの事業となれば、なお更大変なことなります。
上の写真(2011年11月撮影)は家の前で、田の上側はホノギ図に記載されている街道筋でしょう。この街道筋の高さは、田の石積及び東側溝と田を結ぶトンネル(写真右奥下にあり)から推定すると、後ろの庭そしてその後ろの家の敷地より下がっています。この前庭(上写真中央箇所)には明和8年覚兵衛が移住した頃、15年経た松(後の寝松
樹齢210年昭和41年に伐採)がありましたので、この松があった位置の高さは約300年大きな変化はないでしょう。松の位置は現在の家敷地から少し下がり、そこから街道まで合計数十センチの高低差です。座敷部には約1mの盛土とありますので、その底地は街道の高さより低い窪地と思われます。
3.埋められていた漆塗りの椀
居室部に設けられた床の間があった座敷の入口付近から7個の漆の椀が出てきました。
解体途中床板取外した時に一個見えました。下写真中央右下です。
上写真左上にタイルが礎石代わりに置いてあるので、近年の置き忘れか、落し物と思っていました。当初の試掘調査で椀が全部で7個出てきました。上の写真の椀は上に礫(礎石ではない)ないですが、他は礫の下に埋められていたようです。上の椀はタイルの礎石入れる時に外したのではないでしょうか。
7個の椀の内、3個は椀の木地が無くなり漆の塗りのみが残っていました。
下写真の左は木地が見えますが、右の椀には木地が見えません。
椀の一部には焼土に埋められ、上のは黄色粘土の中から出て来ました。
椀が出て来た位置は、現座敷部にあったとする旧生活面から少し離れています。旧居室の釜屋(料理場)がこの位置にあったと推定します。それを文化五年主屋の居室部建立時に現在の釜屋位置に移築し、文政八年に新釜屋建立したときに、絵図の北側にある木納屋(文化十一年に木な屋婦き替(木納屋葺替)の記録あり)としたと推定しています。旧釜屋移築時に井戸も掘ったのではないでしょうか。
何故、椀をうめたのでしょうか。何かの祭事か、これからの調査です。
4.壷状遺構
主屋の東側中央付近から壷状遺構が出てきました。
当初は円形の跡があるだけでしたので、底が円形の置物の置いた痕跡と思っていました。この箇所を試掘すると、以下のような壷状になり、壷状遺構と呼称しています。
この壷状は23個あり、直径30〜40センチ、深さ35〜40センチがあるとのことです。
2015年3月31日 撮影
ここ座敷部の裏に位置し座敷部が建つと庇の下に入り、弘化年代にはこの上に建物が建てられます。その建物の床根太が下写真にあります。
この根太(写真中心部の横木)の中央部に束の礎石が見えます。この上の写真(壷状遺構)の中央部にある礎石です。何故、数十年後の建築を意識したようにそこだけ穴を開けなかったのでしょうか。
もう一つ、不明なのが座敷の整地との関係です。座敷の整地部分が削られています。 座敷部の建立は文化七年で、新居室部に住まい出来るのは文化五年以降ですので、旧居室部(座敷部に設置と推定)解体後になります。整地は文化六年から文化七年の間になり、穴はその整地後に削られたことになります。これはこの時期にも穴(壷状)を整備する必要があったのでしょうか。これも調査継続になります。
5.埋められていた蓋付壷
この近辺から蓋付の陶器がなどが出てきています。蓋を伏せた状態で出て来たのもありますので、破損して廃棄した物ではないようです。全部で十数個埋められて座敷部のトコ下附近から検出されています。一つは他とは違い、50cmほど深い所に埋められていました。
上の左側は土に埋められた状態で、上の壷の表側に梵字(カ)、裏側には卍が書かれています。これは座敷部の中央に埋められております。これに位置的に対応したように天井裏に次の札がありました。
右側に拡大した札の記載「奉讀□仁王般若」でしょうか。
中に液体が入っているの壷、蓋に権□の記載などがあります。
蓋付き器は胞衣壷(えなつぼ)と推定しました。その推論を主屋試掘調査(その2)に紹介します。
漆の椀について、想像も入りますが漆器の遺構に紹介します。壷状遺構はその正体を解明できていません。
何か情報あれば、ご連絡下さい。
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